2009年9月23日 (水)

「ぼくはうみがみたくなりました」 (2)

 
(前の記事からの続き)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/59713067.html

 映画は、 自分を見失いかけていた 看護学生の明日美 (大塚ちひろ) が、

 偶然 自閉症の青年・ 淳一 (伊藤祐貴) に出会い、

 ドライブをする ロードムービー形式の話です。

 自閉症のことを 全く知らなかった明日美が、

 次第に観客と共に 自閉症を理解していく 筋立てになっています。

 その中で明日美も 自分を取り戻していきます。

 全編、 暖かさやユーモアに包まれ、 ほんのり癒されるような 作品です。

 先日観た 「BALLAD」 より 遥かに面白く、

 気持ちが引き込まれる 良い映画でした。

 障害者の家庭だからといって、 悲惨で 重苦しかったりするのではなく、

 現実の家族は 陽気に過ごしています。

 過度に気を遣ったり 心配したりもせず、 突き抜けて ありのままを受け入れ、

 あっけらかんとしているのが 印象的でした。

 しかしもちろん、 パニックを起こす 激しいシーンや、

 周囲の誤解や偏見による 厳しいエピソードもあります。

 それらも含めて、 自閉症の描写については やはりリアリティがあります。

 特に 淳一を演じる伊藤さんは、 前もって 大勢の自閉症児から学び、

 自閉症の人の動作などを 完璧に身に付けました。

 淳一役を決める オーディションのとき、

 一生懸命 自閉症を演じる 他の参加者の中で、

 一人だけ “本物” がいるのではないかと 思われたほどだったといいます。

 そして、 淳一のセリフや言い回しは、

 山下さんの長男・ 大輝君の 実際の口癖だそうです。

 口調なども 大輝君そのままだということです。

 何となく うるうるするシーンが 幾つもありました。

 今後この映画が 各地でもっと上映され、

 自閉症への理解が もっと広まってほしいと思います。

(すでに 自主上映の予定が 多数決まっています。)

(次の記事に続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/59722304.html

 

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2009年8月12日 (水)

映画 「ぼくはうみがみたくなりました」 上映

 
 昨日の読売新聞に、 知り合いの脚本家・

 山下久仁明 (くにあき) さんが 紹介されていました。

 山下さんは 

 自閉症児・ 大輝 (ひろき) 君 (イケメンです) の 父親です。

 大輝君をモデルにした小説  「ぼくはうみがみたくなりました」 を、

 2002年に ぶどう社から出しました。

 それを映画化したいと 動き始めた3年前、

 大輝君は 大好きな散歩中、 事故に遭って 亡くなってしまいました。

 大輝君が全てだった山下さんは 頭が真っ白になりましたが、

 仲間の人たちに励まされ、 映画化を決定。

 自ら脚本を書き、 全国の賛同者からの 寄付金により、

 この度ついに 映画が完成・ 上映されることになりました。

 本当に喜ばしいことで、 ここまで来られた 山下さんに、

 心からの祝福と 敬意を捧げたいと思います。

 8月22日 (土) から 恵比寿の東京都写真美術館で 上映されるので、

 関心のある方は 是非ご覧になってみてください。

 秋野太作さんなども出演し、

 主役の伊藤祐貴さんの 自閉症の演技は、

 山下さん自身をも 唸らせたということです。

 心に沁みる 作品になっているようです。

 自閉症は随分 知られるようになりましたが、

 まだ 誤解もされていて、 居場所のない 家族の人たちも多くいます。

 山下さんも 映画で理解が広まることを 期待しています。

 山下さんのブログにも 上映について書かれています。

http://bokuumi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/10-e3a4.html

 映画 「ぼくはうみがみたくなりました」 公式サイトです。

http://bokuumi.com/

 ネットでのチケット購入も できるようになりました。

http://www.711net.jp/product/n/a01b00/p/3080563

 なお、 映画のパンフレットには 寄付をした人の名前が 載るらしいので、

 σ (^^;) も載るでしょう。

 それにしても、 山下さんの甚大な熱意と 努力と人脈があったとはいえ、

 作品が映画化され 人々に伝わるというのは、 本当に羨ましいことです。

 自閉症とBPDに対する 世間の理解度は まだ雲泥の差ですが、

 いつの日か 「境界に生きた心子」 も 映像化されることを夢見る次第です。
 

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2009年7月27日 (月)

「ディア・ドクター」

 前作 「ゆれる」 で 話題をさらい、

 数々の映画賞を獲得した 西川美和監督の作品。

 笑福亭鶴瓶が 田舎の “ニセ医者” を演じます。

 キャッチコピーは、 「その嘘は罪ですか。」

 半数が高齢者という 山村で、 ただ一人の医者・ 伊野は、

 村人たちから 神様のように崇められています。

 研修医として来た 相馬 (瑛太) も、

 初めは 伊野の力量に 疑問は感じるものの、

 村人たちのために尽くす 伊野の姿勢に 次第に感化され、

 自分もこの村で 医者を続けたいと 思うようになります。

(伊野は熱心に 医学書で勉強を欠かしません。)

 何が偽物で 何が本物なのか。

 何が善で 何が悪なのか。

 西川監督は 問いかけるようです。

 劇中で伊野は、 「自分には 医者の資格がない」 と口にします。

 でも 「医者の資格がない」 とは どういうことでしょう? 

 国家資格が ないということなのか、

 金のことしか考えず 患者を省みないということなのか。

 目の前の村人を 助けるために走り続けて、 止まれなくなってしまった 伊野。

 しかし それが行き詰まる 時が来ます。

 突然の 伊野の失踪。

 それもまた、 伊野の人間としての 良心の葛藤から、

 そうせざるを得なかった 選択です。

 そして、 取ってつけたとも言えるかもしれない ラストシーンも、

 また乙で 印象深いものでした。

 ある町で ニセのタクシー運転手が逮捕され、

 高齢者たちが病院へ行けなくなった というニュースから、

 西川監督はこの話を 思いついたと言います。

 「ゆれる」 で 脚光を浴び、

 国際的にも 極めて高い評価を 受けることになった 西川監督。

 「自分は本当は そんなすごい監督ではない」 という思いを、

 この作品に 重ねたというから、 監督のしたたかさを 感じます。

 因みに、 西川監督が事前に 取材を重ねる中で、

 医者でない者が 医者のふりを続けることは 現実にあり得るかどうか、

 現場の医師に 聞いて回ったそうです。

 その答は  「あり得る」 だったというのも、 恐い話ですね。
 

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2009年7月26日 (日)

読売新聞、 記事改ざん? 

 
(前の記事からの続き)

< 千葉県旭市上永井にある 民間の動物研究施設

 「アルティメットアニマルシティー」で 3日午前、 職員が、

 入り口近くの 草むらに放置された 土のう袋の中に、

 ワニがいるのを見付けた。

 施設職員らによると、

 ワシントン条約で 国際商取引が禁止されている シャムワニとみられる。

 県警旭署は 何者かが捨てたとみて 飼い主の特定を急ぐとともに、

 動物愛護法 (遺棄の禁止) に 抵触する可能性もあるとみて 調べている。

 見つかったワニ=写真=は 約1・5メートルで、

 口を タオルと粘着テープで縛られていた。

 手紙が添えられ、

 「3月に 仕事の契約を切られ、 お金がなく、

 こいつを養うことができません。

 名前は 『ゲン』 です」 などと書かれていた。

 施設代表で、 動物作家の パンク町田さん(40)は

「 初めは、 近くの農家の人が 野菜でも置いていってくれたのか と思った。

 手紙から、 悩みは分かったが 持ち込まれると困る。

 安易に動物を捨てるのは やめてほしい」と 困惑していた。

(2009.05.04 東京朝刊)>

 男性の手紙の内容は ほとんど削られ、

 また元の記事には、 最後の施設代表の言葉は ありませんでした。

( 動物保護法云々の 記載があったかどうかは、 記憶が定かでありません。 )

 恐らく 読者か関係者から、 元の記事は ペットを捨てることを助長する

 などのクレームを受け、 記事の趣旨を変更したのでしょう。

 確かにそれも 考慮しなければならないことですが、

 こんなにも正反対の 記事にしてしまうのか、 読売新聞の見識も疑がわれます。

 もし最初から この記事だけを読んでいたら、

 僕は特に気持ちを 動かされるものはなかったでしょう。

 記事の書き方や 記者の姿勢によって、 読者は 全く異なったものを

 与えられてしまうのだということも、 改めて実感した次第です。
 

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2009年7月11日 (土)

「マン・オン・ワイヤー」 (2)

 
(前の記事からの続き)

 WTCの外観が 屋上まで完成したとき、

 フィリップたちは 夢を実行に移します。

 ビルに内通する人物を 仲間に引き込み、

 入館証を偽造し、 警備員の目を盗んで 屋上へ向かう。

 最上階で 警備員の巡視に出くわし、

 梁の上で 何時間も身じろぎもせず 身を隠したり。

 そして、 深夜の間に ワイヤーを設営。

( 何十メートルものワイヤーは、

 自重でたわんだり、 揺れたり、 ねじれたりします。

 それを防ぐため、 補助のワイヤーを 取り付けなければなりません。

 通常の綱渡りでは、 主ワイヤーの中央に 2本の細いワイヤーを繋げ、

 その一方の端を 地上に固定するのですが、

 400メートル以上の高さでは それは不可能です。

 そこで WTCの屋上の 別の場所に

 細いワイヤーを 固定することにしましたが、

 映画では それをどうやって設営したのかの 説明がありませんでした。

 主ワイヤーを ピンと張るところの 描写もなくて、

 それがとても残念で 見たかったことです。 )

 やがて 日が昇り、 地上を歩く人が 見上げる遥か上空に、

 綱を渡っている フィリップの姿がありました。

 直ちに逮捕しようとする 警官の目の前で、

 悠々と 綱を8往復もする フィリップの姿は痛快です。

 その警官自身、 内心では感動しているのです。

 もちろんこれは 犯罪に間違いありません。

 でも卑劣ではないし、 誰も傷つけず、 むしろ夢を与える。

 綱渡りをするという たったそれだけの筋立ての映画が、

 観る者を 引き付けてやまない所以でしょう。

 アカデミー賞はじめ、 英米の映画賞を 総なめにしたのでした。

「 何故 あんなことをしたのか? 」

 必ず聞かれる質問に、 フィリップは いつもこう答えます。

「 理由なんてない 」
 

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2009年7月10日 (金)

「マン・オン・ワイヤー」 (1)

 
 心子が亡くなった年の 9月11日に、

 テロによって崩落した 世界貿易センタービル (WTC)。

 1974年、 このツインタワーの 屋上の間に ワイヤーを張り、

 地上411メートルの空中を 命綱なしで 綱渡りした男がいます。

 フランスの伝説的 大道芸人、 フィリップ・プティ。

 この壮大な “犯罪” の、

 周到な計画から 実行までを描いた ドキュメンタリー映画です。

 当時の映像と 再現ドラマ、

 現在の関係者への インタビューで構成されています。

 子供のときから 学校に馴染めず 5回も退学させられ、

 独学で 幾多の技能や語学, スポーツを学び、

 各国で芸を披露して回った フィリップ。

 その情熱と 詩的な語り口は 人を引き付けます。

 パリのノートルダム寺院や オーストラリアのハーバー・ブリッジなど、

 数々の建造物の 中空を綱渡りし、 その逮捕歴は 500回以上に及ぶとか。

 彼の命知らずの  “犯罪芸術” に魅せられて、

 力を合わせる 同士が集まってきます。

 フィリップが WTCで空中散歩をする 夢を抱いたのは、

 WTCがこの世に生まれる 6年も前のことでした。

 高校生のとき、 こういうビルが建つかもしれない という新聞記事を見て、

 ここを綱渡りすると 瞬時に思い立ったのです。

 66年に WTCの建設が始まると、 フィリップは仲間と共に、

 フランスからアメリカまで 何度も往復して、 何十回となく下見を重ねます。

 監視の厳しいWTCに いかに侵入するか。

 百数十キロのワイヤーや そのワイヤーを設営する機器を、

 どうやって見つからずに 屋上に運ぶか。

 60メートルも離れた ふたつのビルの屋上に、

 どうやって 鋼鉄のワイヤーを渡すか。

 ワイヤーを引っかけるのは ビルのどの場所がいいか。

 様々な難題を ひとつずつ克服していくため、

 何年にもわたって 議論を交わし、 実験や練習を繰り返します。

 時には 決行をはやるフィリップを、

 まだ計画が杜撰すぎると 親友が引き止め、 大喧嘩になるほどでした。

(次の記事に続く)
 

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2009年7月 7日 (火)

「精神」 (2)

 
(前の記事からの続き)

 患者さんたちの話を聞くと、

 やはりそれぞれ 壮絶な体験をしてきています。

 こんな のんびりした田舎でも、

 これほど多くの人が 心を病んでいるのかと思ってしまいます。

 また、 働けないために 経済的な問題も抱えています。

 折しも 映画の撮影時は、 障害者自立支援法が成立する時で、

 患者の自己負担が増えて 困惑する、 社会の矛盾も 浮き彫りにしていました。

( 心子が通院していたころは、

 精神保健法32条の規定で 外来診療は無料でしたが、

 2003年の 自立支援法成立によって、

 患者は治療費の1割を 支払わなければならなくなりました。

 収入のない障害者にとっては、 1割負担でも死活問題です。 )

 しかし 様々な困難を 抱えた中でも、 本を読み 思索を深め、

 趣深い 心に沁みる言葉を 語る患者さんもいます。

 詩人であり、 賢者であり、 ユーモアもたっぷりです。

 こういう人たちがいるのも、

 診療所の “赤ひげ” 山本医師の 存在があるからでしょう。

 ナースやヘルパーよりも 低い給料で、

 自分は年金と 安い講演料で暮らしています。

( 他の先生が断るような 安い講演 )

 無骨なじいさんですが、

 患者さんの話に 耳を傾け、 親身な言葉を投げかけます。

 それによって 患者さんたちは落ち着き、 人を信頼することができるのです。

 患者さんたちが 映画撮影を承諾したのも、

 山本医師に支えられているからでしょう。

 精神障害者の素顔を 映すことなどに、 批判的な意見も あるかもしれません。

 精神障害者と健常者の 間のカーテンは 容易にはなくならないとはいえ、

 こうした一歩が 積み重ねられていくことが 大切でしょう。

 その試みこそが 評価されるべきだと思います。

 カーテンを開けたいという 想田監督の想いは、

 我々に何かを 投げかけてくれるのではないでしょうか。
 

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2009年7月 6日 (月)

「精神」 (1)

 
 久々に 映画の感想。

 想田和弘監督の  “観察映画” 第二弾です。

 前作では、 日本の選挙の実態を ありのままに映し出した ドキュメント

 「選挙」 が、 世界的な評価を受けました。

 今回は、 タブー視されてきた 精神病にカメラを向けました。

 岡山の片田舎の 精神科診療所の様子を、

 一切のナレーションや 説明などを排し、 ひたすらカメラに収めます。

 登場する人は全て 撮影を承諾してくれた人で、

 実名で モザイクもかけません。

 想田監督は 精神障害者と健常者との間にある、

 “カーテン” を 取り外したいと願うのです。

 モザイクは 相手のプライバシーを 守ると言いながら、

 実は 撮る人間の立場を 守っていると言います。

 クレームや訴訟を免れることで、 撮る方が楽になるというのです。

 しかし想田監督は、 それらのものも悉く引き受け、

 撮影が終わったあとも 患者さんたちと 一生の付き合いをしていく

 と言っています。

 そこまで覚悟を決めた 監督の姿勢には、 全く感服するばかりです。

 舞台は 診療所と言っても、 古ぼけた大きな民家。

 普通の和室が 診察室や受付、 薬局になっています。

 白衣やユニフォームを 着た人はおらず、 誰が何なのか分かりません。

 待合室は隣の棟で、 幾つかの畳の部屋に

 患者さんたちが 好き勝手にしています。

 机には ペットボトルや食べ物, 煙草などが散在し、

 ただの家に お客さんたちがたむろしている ようにしか見えません。

 ソファで寝ている人も、 よもやま話に 花を咲かせる人たちもいます。

 それらを見ていると、 障害者と健常者の 区別はつきません。

 誰もが 対等な人間です。

 患者さんの一人が 語っていたように、

 健常者にも 完璧な人間などいない、 誰しも欠陥を持っている、

 そこから自らも 偏見を取り除いていったといいます。

(次の記事に続く)
 

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2009年3月11日 (水)

「おくりびと」 (二度観)

 
 今日、 新宿ピカデリーで 「おくりびと 」 を観てきました。

( メンバーズカードのポイントで。  (^^;) )

 僕は若いとき以降、 同じ映画を 劇場で2度観るのは 本当に久方ぶりです。

 平日の昼でしたが、 ほぼ満席でした。

 今回は 脚本の完璧さに唸りました。

 正にオスカーに値する シナリオです。

 様々な死のエピソードが、 テーマに合わせて 見事に構成されています。

 まず最初は、 目を背けたくなるような死で、

 この仕事の大変さを 見せつけられます。

 次に、 死を美しい旅立ちに変える 納棺師の貴重な技を 見せてくれます。

 一方、 妻たちの偏見や誤解, 死によるいざこざで、 主人公は先行き不安。

 その間に、 ユーモラスな死などを挿入し、

 死が自然なものとして 観る者の心に染み渡ります。

 突然の 共通の知り合いの 死によって、

 納棺師の 厳かさや優しさが伝わり、 誤解は解けていきます。

 そして、 父の死で 感動を誘うラストへ 向かうわけです。

 石文 (いしぶみ) などの小道具も 実に巧みに効いています。

 エピソードの 大波小波のリズムも秀逸。

 また、 いつも銭湯で 顔を合わせるおじさんの、

 職業が分かる瞬間も 絶妙です。

 1回目に観たときより 大分泣けました。

( 僕は以前は ドラマ性で感動していましたが、

 近頃はシーン (映像) を観ただけで 涙が出てくることがあります。

 音楽を聴いたり ダンス (舞踏) を観たときの 感動と共通します。 )

 人の死を送る映画が、 日本が世界に誇れる 作品の誕生となりました。
 

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2009年2月25日 (水)

「おくりびと」 (2) 〔再掲〕

 
(前の記事からの続き)

 大悟は 妻の美香 (広末涼子) に 自分の仕事の内容を言えず、

 冠婚葬祭関係とごまかしていました。

 ところがある日、とうとう美香に 仕事のことがばれてしまい、

 美香は 「けがらわしい!」 と言って 実家に帰ってしまいます。

 友人からも 「まともな仕事に就け」 と言われ、

 内心反発しながらも、きちんと 言葉にできない大悟。

 人は誰でも 必ず死ぬ、死ぬことは 普通のことなんだ。

 納棺師は 悲しい別れを、優しい愛情で 満たす仕事なんだ……。

 美香は 妊娠したことが分かって 戻ってきますが、

 「自分の仕事を 子供に誇れる?」 という質問に、

 大悟はまだ 言葉に詰まってしまいます。

 しかし、知り合いの 銭湯のおばあちゃんが急死して、

 納棺式に立ち会った 美香は、厳粛な夫の仕事に 圧倒されるのでした。

 そして、生前おばあちゃんが 愛用していたスカーフを 首に巻いてあげる、

 夫の優しさに 心を打たれます。

 誰でもが 「おくりびと」 になるし、「おくられびと」 にもなるのです。

 でも 日常から死が遠ざかっている 現代人は、死を忌避してしまいがちです。

 映画は、旅立ちの静謐さを 改めて教えてくれます。

 それは本来、自然で穏やかに 迎え入れるべきものでしょう。

 故人の在りし日の 面影を取り戻し、送別のお手伝いをするのが 納棺師の勤めです。
 

 大悟の父親は、大悟が幼いときに 女を作って家を出て行き、

 大悟は父親の顔を 覚えていません。

 母親も2年前に 世を去りました。

 大悟は 父を憎んでいますが、そこへ突然、父の訃報が舞い込みます。

 父を引き取る気もない 大悟ですが、

 じわ~っと感動する クライマックスへと 話は進んでいくのです。

 大悟が奏でる チェロの音色、

 「石文 (いしぶみ) 」 と言われる、自分の気持ちを表した石を

 相手に渡すというエピソードも、映画のキーポイントになっています。

 監督は滝田洋二郎。

 「名作」 と呼ぶのに相応しい、

 ユーモアと感動に溢れた 日本映画が、新たに誕生しました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55208477.html
 

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2009年2月24日 (火)

「おくりびと」 (1) 〔再掲〕

 
 米アカデミー賞外国語映画賞を  「おくりびと」 が受賞しました。

 昨年試写会を観て 深く感銘した僕は 大いに期待していました。

 日本映画として 本当に喜ばしいことですね。

 昨年のレビュー記事を 再掲します。

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 納棺師 (のうかんし)。

 遺体を清めて 柩に納める仕事の 映画です。

 ちょっと辛気臭くて、敬遠されそうな職業のように 感じられてしまいます。

 しかし、親族の目の前で行なわれる 納棺の儀式は、

 静謐で、厳かで、死者に対する 敬意に満ちていました。

 故人の肌を 遺族に一切見せないように、遺体を清拭し、

 寝間着から白装束に着替えさせる 一連の手技は、一糸乱れぬ職人技です。

 生きていたときのように 死に化粧を施す指先は、

 何よりも亡き人への 愛情が溢れてます。

 遺族にも一人一人 清拭をしてもらいます。

 それが 旅立つ人と残される人の、最後の心の交流になるでしょう。

 合掌の仕方など、ひとつひとつの所作が 厳格に定められていますが、

 時には臨機応変に、個人的な心尽くしが 振る舞われます。

 ルーズソックスを履きたいと言っていた おばあちゃんのために、

 足袋の代わりに ルーズソックスを履かせたり、

 大往生のおじいちゃんの顔一杯に 娘たちがキスマークを付けて 送ったり。

 悲しみのなかに 微笑ましさが漂います。

 映画の舞台は田舎でしたが、東京では納棺式など あまり知られていないでしょう。

 納棺は、元々は親族が 行なっていたそうですが、葬儀屋が執り行うようになり、

 さらに納棺の業者が 下請けするようになったということです。
 

 主人公の大悟 (本木雅弘) は、「旅のお手伝い」 という求人広告を見て、

 旅行会社だと思い 面接に行きます。

 ところが、出てきた社長 (山崎努) は、「旅立ちのお手伝い」 の誤植だな

 と言って、大枚を差し出して 大悟を雇ってしまいました。

 大悟の初仕事は、孤独死した 老人の遺体。

 死後2週間経っていて、悲惨な現場は 大悟にとって余りにショッキングでした。

 でも大悟は、社長の納棺の儀式を目にして、

 次第に納棺師の仕事に 気持ちが傾いていきます。

 ある遺族は、死に化粧を施された妻が 「今までで一番きれいだった」 と言って、

 涙を流して 社長に頭を下げました。

 ときには 遺族の喧嘩に巻き込まれたり、

 女性だと思った故人が ニューハーフで “あれ” が付いていたり。

 悲喜こもごものエピソードを、映画はユーモラスに描いていきます。

(次の記事に続く)
 

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2009年1月22日 (木)

「誰も守ってくれない」 (2)

 
(前の記事からの続き)

 自分は何もしていないのに、 次々と降りかかる 災難と悲劇、

 15才の沙織には とても受け止めることのできない 激動です。

 気丈な沙織ですが、 志田未来の涙の訴えは 峻烈に胸に迫り、

 涙を禁じ得ませんでした。

 特に後半では、 ネットの 偏執的な書き込みによる、

 プライバシーの暴露や 外野席からの糾弾を、

 荒々しい映像で 畳みかけていきます。

 自分たちは安全地帯にいて、 無謀な攻撃を広げる 傍若無人さは、

 人間の恐ろしい性 (さが) でしょう。

 ネットの被害は 僕も受けたことがあるので、

 その言いようのない脅威は 身に沁みて分かります。

 無責任に人を傷つける 匿名の誹謗も、 決して許されない 犯罪です。

 しかし、 人のプライバシーを知りたい,

 悪い奴を必要以上に 取っちめたいという気持ちは、

 誰の心にも あるものでしょう。

 そういう気持ちが、マスコミやネットの暴走を 招く要因になっていると思います。

 これは 日本で起きている現実です。

 我々自身も 戒めなければならない ことではないでしょうか。

 沙織は 自分の母親を助けられなかった 勝浦を憎み、

 決して 心を開きませんでしたが、

 身を挺して 沙織を守る 勝浦の姿に、 心が動かされていきます。

 そして 沙織もまた 兄を守ろうとしていたのでした。

 沙織が最後に見せる 勝浦への心情。

 口には出さず それを受け止める勝浦。

 印象深い ラストシーンでした。

 家族が罪を犯したばかりに、 いつまでも 激しく付きまとう 中傷や嫌がらせ。

 そのために 自殺してしまう家族もいます。

 しかし警察は それを公に認めず、 マスコミも取り上げてきませんでした。

 恐らくこれは人知れず 沢山起きている 悲劇でしょう。

 そこに着目し、 サスペンスフルな 人間ドラマに仕上げた、

 君塚良一の意欲と 手腕に敬服します。

〔* 映画が公開される 1月24日(土)、

 映画の 4ヶ月前のできごとを描く ドラマが放送されるそうです。

 フジテレビ 「誰も守れない」  午後9時~11時10分〕
 

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2009年1月21日 (水)

「誰も守ってくれない」 (1)

 
 「犯罪者の家族を守る」 という、

 これまで 光が当てられなかったテーマを 描いた秀作です。

 脚本・ 監督は 「踊る大捜査線」 の君塚良一で、

 殺人犯の家族を マスコミや世間の攻撃から守る 刑事・勝浦を 佐藤浩市、

 犯人の妹・沙織を 志田未来が熱演しています。

 東野圭吾原作の 「手紙」 でも、

 犯罪者の家族が受ける 被害や苦悩を描いていましたが、

 本作品のほうが 事件直後の生々しい 緊迫感や迫真力があります。

 そして 現代ならではの、

 ネットの書き込みによる 実害の恐怖も描かれています。

 未成年の長男が 容疑者として逮捕されるやいなや、

 マスコミや野次馬の群れが 騒々しく自宅を取り囲み、 刑事が押しかけます。

 また 裁判所の人間がやって来て、 夫婦に離婚を迫ります。

 実名報道がされると 苗字から犯人の家族だと 分かってしまうので、

 それを防ぐため 夫が妻の籍に入って 苗字を変えるというのです。

 両親は訳も分からないまま、 差し出された書類に署名し、

 あっという間に 離婚・再婚が成立します。

 長男だけが籍から外れ、 その場で 沙織の就学義務免除の 手続きも取られ、

 中学生の彼女には 事態を呑み込むこともできません。

 マスコミの無遠慮な詰問や 執拗な追跡が、 幼い沙織に襲いかかります。

 3人は別々に 保護されることになり、

 勝浦は 沙織の警護を任され、 逃避行が始まるのです。

 そして勝浦自身も 家族の危機的な問題を抱え、

 過去に 心の深手を負っています。

 勝浦はかつて 助けられる被害者を殺してしまった、

 それなのに今度は、 反対の立場の 犯人の家族を保護している。

 マスコミは それを無情に追及し、

 加害者の家族など 守る必要はないと 責めたてます。

 勝浦は 自分の過去とも 闘わなければなりませんでした。

 加害者, 被害者, それぞれの家族, 刑事、

 それぞれの立場の苦悩や、 癒されない傷が交錯します。

 どの立場の人間にも、どうしようもない痛みがあるのです。

 それを理解できない 人間たちが、 偽物の “正義感” を振りかざし、

 不心得な好奇心で 傷ついた人の心を 無惨に踏みにじります。

 あくどい新聞記者, 不謹慎で残酷な大衆, 信じていた人間の 裏切りなどが、

 彼らをさらに 窮地に追い込んでいくのです。

(次の記事に続く)
 

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2008年10月23日 (木)

「ブタがいた教室」 (2)

 
(前の記事からの続き)

 皆で育てたPちゃんは、 ペットであり、 友だちです。

 最初は 「臭い」 と言っていた子供も、 Pちゃんの糞尿の始末はもちろん、

 嵐の日には誰ともなく 豚小屋に集まってきて、 Pちゃんを風雨から守りました。

 一緒にサッカーをしたり 楽しい想い出を重ね、

 トラブルも皆で 乗り越えてきたのです。

 “情が移る” というのは 全く自然な感情で、

 家族同然になったPちゃんを、 まさか 食べることなんてできるのか?

 卒業を控えて子供たちは、 初めの約束通り Pちゃんを食べるのか、

 大論争が引き起こされます。

 初めは 「食べない」 が多かったものの、

 意見は 真っ二つに分かれていきます。

 後輩のクラスに Pちゃんの世話を引き継いでもらう という案も有力になり、

 子供たちは自ら働きかけ その準備もします。

 でも 引き継ぐ名乗りを上げたのは 3年生で、

 今や すっかり大きくなったPちゃんを

 小さい子たちが世話するのは 危険が伴います。

 この映画では、 子供たちに渡された台本は  「白紙」 だったそうです。

 彼らは 自分自身の頭と心で考え、 Pちゃんをどうするか、

 自分の言葉で 本気の議論を交わしていくのです。

 「かわいいPちゃんを食べるなんて 信じられない」

 「他のブタならいいのかよ」

 「Pちゃんとは 想い出が一杯できた。 これからも 生きていってほしい」

 「ブタは食べられるために 生まれてきたんだ」

 「食べるのは 殺すってことよ」

 「殺すんじゃなくて、 命を引き継ぐっていうことだよ」

 「Pちゃんに 最後まで生きてもらうのが 私たちの責任でしょ」

 「3年生が ちゃんと世話できるように 教えていく」

 「自分たちに解決できないから 問題を先のばしにするのは、 責任じゃない」

 「もし 最後に食べてしまうとしたら、 自分たちで最後にするのが 責任だと思う」

 どれもこれも 正しい意見であり、 聞き流せることは ひとつもありません。

 子供たちは 全員が涙を流しながら、 時には 取っ組み合いのけんかもし、

 必死で 思いを述べていきます。

 白熱の議論のシーンは 必見に値します。

 妻夫木聡も演技というより、素でやっているようにも 見えました。

 果たして クラスが出した答は……? 

 正しいひとつの答はなく、 これだけ懸命に、 皆で真剣に 取り組んだ体験は、

 それこそが子供たちの 一生の宝になるでしょう。

 何にも替えがたい、 この上なく貴重な  「命の授業」 だと思います。
 

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2008年10月22日 (水)

「ブタがいた教室」 (1)

 
 1990年、 大阪の小学校であった 実話です。

 新米教師の星先生 (妻夫木聡) は、 命の大切さを学ぶ 実践教育として、

 クラスで豚を飼って 皆で育て、 最後に 自分たちで食べるという、

 驚くべき授業を始めました。

 食育や 教育のあり方が問われる はるか前のできごとです。

 言葉で教わるだけではなく、実際に 自分の体で体験して、

 命の重さを実感してもらいたい というものです。

 子豚は Pちゃんと名付けられ、

 子供たちは 力を合わせて小屋を作り、Pちゃんの世話を していきました。

 この実話は1993年、 ドキュメンタリーとして テレビ放送され、

 ギャラクシー賞や 内閣総理大臣賞を受賞して 大反響を呼んだそうです。

 残酷だ、 そんなのは教育じゃない という批判が飛び交うなか、

 教師の情熱と 子供たちの一生懸命な姿に 感銘し、 支持する人たちもいました。

 僕は この番組は見ませんでしたが、

 ニュースか何かで見て、 本当に心が 動かされました。

 自分だったら 食べるのか、 食べないのか、 あまりに難しい問題です。

 「人間が食べるもので、 水と塩 (生命の母たる海) 以外に

 生き物でないものはない。」

(化学調味料なんてのは ありますけど。)

 これは僕の “持論” ですが  (^^;)、

 生きるということは、 他の命をいただいて 生かせてもらうということです。

 昔は 家畜を裂く光景を、子供たちも日常で 見ながら育ってきたのです。

 現代は “残酷な” 場面は 日常から切り離され、

 スーパーでパックされた 肉しか見られません。

 出演者の子供たちの半数は、 豚肉がどこから来るのか 知らなかったといいます。

 グルメが隆盛を極め、 我々はおいしい料理を 満喫します。

 きれいなところだけを 見て味わい、

 “屠殺” という言葉は 差別用語にもなっています。

 昔は このような他の 「命」 をいただいているという 実感があったからこそ、

 食事の時に 心から感謝の気持ちが 生まれたのでしょう。

 今は 「いただきます」 も言えない 子供が増えているとか。

(次の記事に続く)
 

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2008年10月21日 (火)

「宮廷画家ゴヤは見た」

 
 タイトルは 「家政婦は見た」 みたいですが、 さにあらず。

 「アマデウス」 のミロス・フォアマン監督が、

 18~19世紀のスペインの 波瀾を描いた秀作です。

 ゴヤは宮廷画家として 王たちの肖像画を描く一方、貧しい庶民の姿を 描き続け、

 権力の腐敗を鋭く風刺する 版画などを創っていました。

 ゴヤにとって絵画は、 社会や人間の真実を伝える 武器でもありました。

 この映画では、 きのうの記事にも書いた ナタリー・ポートマンが、

 過酷な汚れ役を 力演しています。

 裕福な商人の娘として 天使のような輝きを放ち、

 画家としての ゴヤの目を射止めた イネスの役ですが、

 教会の異端尋問にかけられ、 無実の罪で 囚われの身になってしまうのです。

 全裸で拷問を受け、15年の牢獄生活で 精神も病んでしまいます。

 全身皮膚病のようになって、 顎もゆがみ、 老婆のような風貌で、

 「スターウォーズ」 アミダラ姫の 面影はありません。

 イネスは獄中で 身ごもらされます。

 しかし 産まれた娘は すぐ孤児院に移され、

 その後 逃げ出して 娼婦になりますが、

 ポートマンは一人二役で この娘も演じています。

 天晴れな女優魂を 見せられた思いです。

 イネスを妊娠させた ロレンソ神父は、

 「ノーカントリー」 で 不気味な殺人鬼役で アカデミー賞を獲得した

 ハビエル・バルデム。

 威厳の下に 邪心を隠し持つ 宗教者を好演しています。

 スペインは フランス革命の影響や ナポレオンの侵攻を受けて、

 権力者が二転三転します。

 そのたびに 裁く人間と 裁かれる人間が 一挙に逆転する構造は、

 実に残酷なものです。

 自由と平和の名の下に、 庶民を強奪し犯す 軍隊や権力者たち。

 ゴヤは それらを克明に 書き留めていきます。

 デフォルメによって 物事の本質を表現する ゴヤの絵画は、

 美術史の革命である 印象派の先駆けであったのでしょう。

 フォアマンは ゴヤの目を借りて、現代にも通じる 社会問題を写し取りました。
 

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2008年10月20日 (月)

「ブーリン家の姉妹」

 
 16世紀のイングランド、 ヘンリー8世には 王妃との間に男児ができず、

 世継ぎをもうけることが 最大の関心事になっていました。

 新興貴族ブーリン家の長女・ アン (ナタリー・ポートマン) が、

 王の側室に 差し出されます。

 しかし ヘンリー8世が見そめたのは、

 アンの妹のメアリー (スカーレット・ヨハンソン)。

 アンは妹に 結婚も側室という立場も取られ、 嫉妬と復讐心に 駆られます。

 そして 凄まじい策略で、 アンは 王の寵愛を奪い、

 さらに 王妃までをも追放して、 自分がその座に 座るのです。

 ナタリー・ポートマンは、

 「スターウォーズ」 アミダラ姫の 清楚で凛とした 役柄から、

 打って変わって 我の強いアンの 役どころです。

 意志が強く 才気あふれながらも、 狡猾で非情、

 目的のためなら 妹を裏切り、 悲境におとしめることを 何とも思わない。

 国家の存続よりも 自分の野心を 選ぶ女性を、 壮烈に演じています。

 一方メアリーは 純真で心優しく、 ヘンリー8世を愛していましたが、

 本当は 田舎の穏やかな生活を 望む女性でした。

 これまで 歴史に顔を出したことは ありませんでしたが、

 映画は歴史というより、 女性たちの生きざまを 描いています。

 アンは 女の子を一人 産みますが、

 その後は 身ごもった子を 流産してしまいます。

 それを王に知られたら 愛を失ってしまうと 恐れおののき、

 取り乱したアンは、 流れた子の代わりに 実弟との間で 子供を妊娠しようと……。

 恐ろしい……。

 最後の一歩で 踏みとどまったものの、 アンは 不貞と近親相姦の罪で 極刑に。

 そのときメアリーは 自分の身の危険も省みず、 アンの助命を 嘆願したのでした。

 対照的な二人の姉妹。

 メアリーは 歴史の表舞台には 残らなかったとはいえ、

 最後は望み通り、 田園での平和な家族生活を 手に入れたのです。

 何が勝ち組、 負け組と言えるでしょう? 

 世継ぎを巡って 骨肉の争いが繰り広げられ、

 多くの悲劇が 生じてしまいましたが、結局 男児は誕生しませんでした。

 ところが、 ヘンリー8世の跡を継いだのは アンの一人娘、

 のちのエリザベス1世。

 その後 45年間にわたり、

 「ゴールデンエイジ」 と呼ばれた 国家統治に君臨するのです。

 壮観な歴史の皮肉を 見せつけられた気がしました。

 それにしても 英国王室のスキャンダルは、

 何百年も前からの  “伝統” だったのでしょうか。
 

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2008年10月19日 (日)

「ICHI」

 
 あの座頭市を、なんと 綾瀬はるかが演じるという 異色作です。

 市は、盲目の三味線引きの 旅芸人・ 瞽女 (ごぜ) という設定です。

 瞽女一座から破門され、離れ瞽女となった 天涯孤独の市。

 人との関わりを断って 心を閉ざし、人を探して さすらっています。

(盲目の 居合斬りの達人という その男は、 市の父親なのか? )

 「なに斬るか 分かんないよ、 見えないんだからさ」

 そんなキャッチコピー、

 仕込み杖の逆手一文字で 男たちを斬り捨てる 綾瀬はるかは、 滅法かっこいい。

 リサ・ジェラルドの 切々たる音楽で展開する、

 市の悲運な過去の 回想シーンは、 「砂の器」 を思わせ 涙腺を刺激します。

 従来の 男の座頭市には 見られなかった、市の悲しい内面が 描かれています。

 愛されたことがなく、愛することも知らずに 生きてきた市。

 彼女のセリフには、まるで ボーダーの人を象徴するような 言葉がありました。

「 目の見えない人間には、 境目が分からない。

 今が昼なのか、夜なのか。

 いま歩いている 道の境目が いつなくなるのか。

 いい人と悪い人の 境目なんて、 どこにある? 

 生きてるのか 死んでるのかさえ、 私には はっきり見えない……!

 ………別に、生きていたいとも 思いませんけどね……」

 何故 この作品に 「境目」 という 言葉が使われたのか、

 不思議で 因縁を感じます。

 これは 綾瀬はるか自身も、最も印象に残っている セリフだそうです。

 そんな市が 旅の途中で出会った、

 刀を抜けない剣士・ 藤平十馬 (大沢たかお) や、 その他の男たち。

 彼らと関わり、賊党と渡り合うなかから、

 市は次第に 人との触れ合いを求めていきます。

「 境目が、見えてきた気がする……」

 そう言って市は、心のぬくもりを 取り戻していくのでした。

 監督は 「ピンポン」 の曽利文彦、

 脚本は ドラマ 「ラストフレンズ」 の浅野妙子です。
 

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2008年9月 3日 (水)

「12人の怒れる男」

 
 法廷劇の不朽の名作 「十二人の怒れる男」

 (1957年.シドニー・ルメット監督)を、

 ロシアの名匠 ニキータ・ミハルコフ監督がリメイクしました。

 話の骨格は そのまま踏襲しながら、

 舞台を 現代のロシアに変え、ロシアが抱える 様々な社会問題も糾弾していきます。

 チェチェンの少年が、養父であるロシア人将校を 殺害したという事件で、

 明らかに有罪と 思われていますが、少年は否認しています。

 評議に入った陪審員たちは、議論の必要もないと 早々に切り上げようとしますが、

 一人の陪審員が おずおずと、少年の一生がかかっているのだから

 話し合いだけでもしようと 異論を挟むところから、話は展開していきます。

 有罪無罪は 全員一致でなければならず、

 有罪に対して 少しでも 「合理的な疑い」 があれば、無罪にしなければなりません。

 またロシアでは 死刑が廃止され、

 最高刑が終身刑であることも、最後のどんでん返しに 繋がっていきます。

 オリジナル版は 子供のとき テレビで見た覚えがあります。

 評議室だけの密室劇だったと 記憶していますが、

 リメイク版は 少年の痛ましい生い立ちや 拘置所の少年の姿などを、

 カットバックで挿入します。

 評議室は改築中のため、臨時に学校の体育館で 評議が行なわれ、

 それも作品に 膨らみを与えています。

 各陪審員の体験談が語られ、他の陪審員の 心を動かして、

 一人 また一人と、有罪から無罪へと 転じていくのです。

 感情論や一般論が 目立って、事件の個別の 検証が少ないのが 歯がゆいのですが、

 それでも 画面は緊迫感に満ち、卓抜した演出に 引き込まれました。

 有罪に 「合理的な疑い」 があれば、無罪を証明する 必要はありません。

 少年は放免されて、捜査がやり直されるのです。

 映画は 綿密な真相解明よりも、現代ロシアの諸問題

 --チェチェン紛争,人種差別,公共事業の杜撰さ,権力の腐敗など--

 を訴えているようです。

 俳優でもある ニキータ・ミハルコフ監督が 陪審員の進行役になり、

 最後の一番おいしいところを 持っていっちゃってますが、

 法の厳粛さを超えた 人間の慈愛を描いています。

 
 日本でも来年 裁判員制度が始まりますが、

 人を裁く場に立つことの 参考になるかもしれません。

(関連記事: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54174871.html

 ところで 「十二人の怒れる男」 の日本版には、

 1991年の 「12人の優しい日本人」 (中原俊監督) があります。

 日本に陪審員制度があったら という仮定の話ですが、

 いかにも 日本人ならこうなるだろうという 傑作でした。

 ユーモアたっぷりの映画ですが、脚本は 三谷幸喜が書いていました。

 この頃から 才気を発揮していたんですね。
 

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2008年8月23日 (土)

「ダークナイト」

 
 「バットマン」 シリーズ最新作です。

 「Dark Night」 かと思ったら、

 「Dark Knight」 (暗黒の騎士) でした。

 アクションとCGも 見応え充分で、一筋縄ではいかない ストーリー運びです。

 ただ 無類の正義漢である 検事のデントが、

 ジョーカーの手にかかって 悪に転落してしまうのは、

 心理的にも物理的にも 無理がありましたが。

 バットマンの葛藤も描かれて、アクション映画としては 上出来だったと思います。

 特筆すべきは 何といっても、

 異彩を放っている ジョーカー (ヒース・レジャー) の存在です。

 バットマン (クリスチャン・ベール) も 決して真昼のヒーローではなく、

 闇のにおいを漂わせていますが、ジョーカーは出色です。

 前作のジョーカーを演じた ジャック・ニコルソンは、

 陽気な異常者 という面持ちでしたが、

 ヒース・レジャーのジョーカーは、

 どこか陰があり、偏執的で、ユーモラスでもある モンスターを体現していました。

 メイクは相当崩れ、活舌もおかしく、

 ヒース・レジャーの役作りは 周到に練り込まれたものだろうと 想像されます。

 役者魂に脱帽です。

 そして、この映画の撮影後、ヒースが急死したというのは、

 何とも ショッキングなできごとです。

 死因は公表されていませんが、睡眠薬の多量摂取か とも言われています。

 非常に繊細な 青年だったといいますが、

 享年28才という あまりに惜しい 才能の損失でした。

 同性愛者の “純愛” を描いた 「ブロークンバック・マウンテン」

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34019511.html#34019511) でも、

 心を揺さぶる 演技を見せたのが とても印象的です。
 

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2008年8月22日 (金)

「ハンコック」

 
 スーパーマン並の 超絶的なパワーを持ち、

 ロサンジェルスの犯罪を 解決するハンコック (ウィル・スミス)。

 ところが彼は ロス中の嫌われ者で、クズ呼ばわりされています。

 犯罪者を捕まえる時、必要以上に ビルや道路などをぶっ壊し、

 交通事故を巻き起こしても お構いなし。

 いつも飲んだくれて、暴言を吐いては ひんしゅくを買っているのです。

 アンチヒーローどころか、全く “新しい” タイプの スーパーマンです。

 肉体は超人でも、脳細胞は人並み以下 ということなのですね。

(だから 記憶喪失にもなるのかと、妙に納得してしまいました。)

 PR会社のレイは ハンコックに命を救われて、

 ハンコックが人々から好かれるように イメージチェンジを図ります。

 初めは渋っている ハンコックですが、次第に 言動をわきまえていきます。

 このまま 良いヒーローになってしまったら 話にならない、と思っていると、

 レイの妻メアリー (シャーリーズ・セロン) の 秘密が明らかになる所から、

 ストーリーは二転三転し、予想もできない 展開になっていきます。

(前半と後半が 別の話になってしまっている、という印象はありますが。)

 ラストには 感動をそそるシーンも 用意されています。

 今までになかった アクション娯楽作品で楽しめました。
 

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2008年8月21日 (木)

「シティ・オブ・ゴッド」, 「シティ・オブ・メン」

 
 1960年代、国際的な観光地である リオデジャネイロ。

 高級ホテルが立ち並ぶ 美しい海岸から わずか数百メートルの丘には、

 ファヴェーラと呼ばれる 貧民街があります。

 ギャングが横行し、ブラジル人であっても 近づかず、

 隔絶された 裏社会になっています。

 しかし ブラジル人特有の活発さと、サンバのリズムに乗った スラム街は、

 世界一陽気な地獄 と言われるのです。

 登場するのは 少年や青年たち。

 文字も読めない彼らが 強盗を働き、銃を乱射し、麻薬を売買し、

 抗争が繰り広げられます。

 快活な笑顔と 容赦ない残酷さ、そのギャップに 付いていけないほどでした。

 「シティ・オブ・ゴッド」 は、2002年の フェルナンド・メイレレス監督作品。

 衝撃的なバイオレンスで、カンヌを震撼させたといいます。

 鮮烈な映像と 絶妙なリズム,緻密な構成,ユーモアを交えた語り口で、

 観る者を引き付けてくれます。

 メイレレスの手腕は、2005年の 「ナイロビの蜂」 へと 結実していきます。

(「ナイロビの蜂」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/35889275.html

 「シティ・オブ・メン」 は2007年、メイレレスが制作に回り、

 監督は メイレレスのパートナーである パウロ・モレッリが務めました。

 同じくファヴェーラを舞台した 全く別の話ですが、

 「シティ・オブ・ゴッド」 の 暴力的描写に加えて、

 友情や親子の情を テーマに描いています。

 ブラジルの知られざる一面を 見せてくれた、刺激的な映画でした。

 でも 黒人のスラム街を 舞台にした作品では、

 2006年 アカデミー賞 外国語映画賞を受賞した

 南アフリカの 「ツォツィ」 (ギャヴィン・フッド監督・脚本) のほうが、

 僕は 遥かに感動的でした。

(「ツォツィ」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46674911.html

 暴力の中で 育てられた子供は、暴力しか 生きる方法を知らず、

 人の愛情を知ったとき、初めて自分も 愛することができる。

 そのテーマが ボーダーにも通じ、特に僕には 響くものがあるのですね。
 

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2008年8月 6日 (水)

「闇の子供たち」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55414343.html からの続き)

 “微笑みの国” として 人気の高いタイですが、

 日本人観光客の知らない所で、無力な子供たちの 性と生が搾取されています。

 ただしタイ政府は 摘発に力を入れ、事態は相当 改善されましたが、

 その分 アンダーグラウンドへと潜んでいきました。

 恵子 (宮崎あおい) は 幼い純粋さで、

 子供の命を買う日本人に 食ってかかります。

 しかし そうやって個人を非難しても、問題は何も解決しない。

 一人のタイの子供を 救っても、また “予備” の子が 用意されているのです。

 そのシステムを 明らかにしていかない限り、犠牲者は 次々と生まれてくる。

 南部 (江口洋介) は、事実を見て、それを伝えるのだ と主張します。

 南部と恵子は 同じ正義感を持ちながらも、

 行動への移し方が 異なるため、両者は 何度もぶつかり合います。

 一筋縄ではいかない 現実の中で、目的を実現していくための葛藤も、

 原作の人物と設定を変えた 見せ場です。

 我々観客も、映画を観て 「知る」 ことが 第一歩として必要なのだと思います。

 確かに 知ったからといっても、一人で何が できるわけでもありません。

 しかし 知る人が増えてくれば、それは 「世の中」 としての 力になっていきます。

 その中から 実際に行動する人たちも 多く出てきて、現実に働きかけていくでしょう。

 そして 世論のバックアップは、強力な支えになるに 違いありません。

 「すそ野」 を広げることが、頂きの高さを せり上げていくのです。

 それが 作品やジャーナリズムの役割であると、僕は思っています。

 そして 今の僕にできることは、こうして 映画を紹介することでしょう。

 阪本監督は 作品のテーマや意義を、

 タイの政府や役者たちに 丹念に説明していったといいます。

 限りない困難を克服しながら タイでのロケを敢行し、

 骨太の構築物に 結実させていった 阪本監督の胆力は、称賛に値します。

 監督は 児童虐待や性的搾取のシーンも 決してオブラートに包むことなく、

 大人の醜悪さを 映し出します。

 それらは 目を背けたくなるばかりです。

 そのシーンを 撮影する際、監督は タイの子役たちの心のケアに

 神経をすり減らすあまり、声が出なくなってしまった といいます。

 阪本監督はこのテーマを、自分が安全な場所にいて 告発するのではなく、

 自分自身に戻ってくることなのだ と強調しています。

 それを表現するため、原作とは異なった 設定にされている南部は、

 ラストシーンで 驚愕の過去が明かされます。

 「自分を見ろ!」

 阪本監督から そう言われたかのようなメッセージは、

 我々に痛烈に突きつけられて、胸を締めつけるのでした。
 

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2008年8月 5日 (火)

「闇の子供たち」 (1)

 
 「亡国のイージス」 の社会派・阪本順治監督が、

 衝撃の問題作を 我々に見せ付けました。

 原作は、「血と骨」 の梁石日 (ヤン・ソギル)。

 タイを舞台にして 暗躍する、人身売買,児童売春,

 そして 臓器密売、闇社会の実態を暴きます。

 そして、そこには日本人も 関わっているのだという現実を……。

 日本新聞社バンコク支社の 南部浩行 (江口洋介) は、

 タイで 日本人の子供が 心臓移植手術を受けるという 情報を得ます。

 裏事情に通じる男を通して、臓器密売の仲介者に 接触した南部は、

 恐ろしい事実を掴みます。

 ドナー (臓器提供者) となる タイの子供は、脳死ではなく、

 生きたまま麻酔をかけられて 臓器を摘出されるのだと……。

 南部は真実を追います。

 意気地ないカメラマン 与田博明 (妻夫木聡) も、

 やがて 南部に感化されていきます。

 一方、バンコクの社会福祉センターに やって来た音羽恵子 (宮崎あおい) は、

 タイの子供たちのために 何かをしたいという 熱意に燃えています。

 女性所長のナパポーンが スラム街を視察し、

 同行した恵子は 貧民層の厳しい現実に 直面させられます。

 貧困のため 我が子をブローカーに 売らざるをえない親。

 売春宿の片隅の 牢屋に監禁されている子供たち。

 仲買人も子供に 性的な行為を強要し、拒むと 容赦ない暴力を加えます。

 醜い外国人客が お気に入りの子供を指名して、宿の部屋へ 連れて行きます。

 ペドフィリア (小児性愛) と言われる 性的倒錯であり、犯罪です。

 そして その客の中には 日本人たちもいるのです。

 先進国では このような幼児期を 体験した子供は、

 解離性同一性障害や 境界性パーソナリティ障害に 陥ったりします。

 しかしここでは、そこまで至ることさえ 許されません。

 エイズに感染した子は ゴミ袋に入れられて、生きたままゴミ捨て場に……。

 元気な子は 臓器摘出のため、初めて きれいな服を着せられ、

 病院へ連れられていくのです。

 これは遠い国の 無縁は話ではなく、

 地図の上では わずか20cmの所で 実際に起こっていることであり、

 日本人も 子供たちの命に 値札を付けて買っているのです。

 我々もそれを 知らなければならないでしょう。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55427668.html

 

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2008年7月30日 (水)

「ゲゲゲの鬼太郎  千年呪い歌」

 
 前作の 「ゲゲゲの鬼太郎」 が 大したことなかったので、

 期待していなかったのですが、今回は かなりよくできていました。

 鬼太郎が人間を助けても 何も報われないことに 嫌気が差していたり、

 単なる勧善懲悪でもなく、きれいごとでもありません。

 妖怪ぬらりひょん (緒方拳) が 人間を破滅させようとするとき、

 自然を破壊して 争いを繰り返す人間の 愚かさを述べます。

 これに対する鬼太郎の言葉、普通なら 「それでも人間には、優しさや希望もある」

 とか言うようなところでしょうが、ちょっとひねりが利いていました。

 CGも効果的で、鬼太郎の髪の毛針や 砂かけ婆のしょぼい武器も、

 スケールアップされています。

 終盤の 巨大な骸骨の化け物も 見応えはありました。

 妖怪・ぬれ女 (寺島しのぶ) と 人間 (荻原聖人) との愛情も、

 ぐっと涙を誘います。

 憎しみを抱き続けるのは 虚しいということも思わされましたね。

 それにしても、ウエンツ瑛士は どうしてもミスキャストだと思われてなりません。

                  *

 ところで、「妖怪」 というのは元来は、「起こる」 ものなのだということです。

 僕が所属している 「ユング心理学研究会」 の、

 「妖怪学」 のセミナーで聞きました。

(参考:http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29076643&comm_id=1454900

 例えば、寝ているときに足音が聞こえる という 「現象が起きる」 とします。

 これは 「ざしきわらし」 がいるからだ、という 「名前」 が付けられます。

 足音という 「起こった現象 (=事) 」 に 名前を付けることによって、

 不思議な 「事」 を記述してきたのです。

 昔からの妖怪の話は 言葉によるものだけで、目に見えないものでした。

 水木しげるが描くキャラクターは、コミックの中だけのものです。

 在る  「コト」が、居る 「モノ」 に 成っていったということです。

 妖怪は、この世的なものと あの世的なものとが 交わる領域に現れるものです。

 「物」 と 「心」 の間にある 「事」 として現れるのが、妖怪なのだそうです。

 人間は それに名前を付けることによって 人格化し、

 相手が何者か 特定して語り合います。

 妖怪と人間の付き合いは、「事」 と 「名」 の間に あるというお話でした。
 

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2008年7月29日 (火)

「帰らない日々」

 
 「ホテル・ルワンダ」 の 監督テリー・ジョージが、

 またひとつ 心に残る映画を 作ってくれました。

( 「ホテル・ルワンダ」 :http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/28004338.html

 突然の交通事故で、かわいい息子ジョシュを 奪われたイーサン。

 警察の捜査は進まず、しびれを切らせて 弁護士に調査を依頼します。

 ところが その弁護士ドワイトは、ジョシュをひき逃げした その張本人だったのです。

 イーサンは その事実を知りません。

 ドワイトは現在 妻と別れ、息子ルーカスと面会することを 最大の喜びにしています。

 ルーカスと 会えなくなることが恐くて、逃げてしまったのです。

 イーサンの妻グレースと 娘のエマは、それぞれに悲しみと 罪悪感を抱えています。

 しかし 父親と母親では 悲しみ方や、犯人への怒り方が異なり、

 きしみが生じていきます。

 ひとつの不幸が、また新たな不幸を 生み出していってしまう。

 何とやりきれないことでしょう。

 ドワイトも 罪責感に駆られ、自首を決意しますが、

 いざとなると 僅かなタイミングのずれで 言い出せません。

 今一歩の強さが 持てないのです。

 ふたつの家族、二人の父親が、それぞれに苦しみながら、

 崩壊の危機にさらされ、懸命に踏み出していきます。

 卑怯なひき逃げ犯が 今ものうのうと生きていることに、憎悪をかきたてるイーサン。

 真実を言い出せない 罪意識に押しつぶされそうになる ドワイト。

 やがてイーサンは、ドワイトが真犯人ではないか ということに気付きます。

 そのとき、彼が取った行動は……。

 予想できない 旋律の展開に息を呑みます。

 緊迫で胸が高鳴り、「サスペンス」 とは、

 こういうシーンのことだと 思わされました。

 そして ラストシーン。

 あともう一押しがあれば と残念でしたが、

 終わったあとも ズーンと胸に迫るものがあり、

 重いテーマを 投げかけられた作品でした。
 

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2008年7月21日 (月)

「おくりびと」 (4) (新宿ピカデリー)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55208477.html からの続き)

 「おくりびと」 の試写会は、7月19日にオープンした 新宿ピカデリーの、

 オープニング記念として 行なわれました。

 元は 松竹のピカデリーだった所で、

 以前僕が 松竹シナリオ研究所に通っていた頃は、無料で入場できていました。

 以前はスクリーンが4つで、一番小さいスクリーンは

 ホームシアターよりも 小さいくらいのものでした。

 それが 真っ白で明るい シネコンに生まれ変わりました。

 大勢のスタッフに出迎えられ、丁寧に応対してもらいました。

 他のシネコンとは 一味違うデザインの、しゃれた空間です。

 オープニングキャンペーンでは、土曜日は 映画1本千円とか、

 平日千円鑑賞券などが配られ、各種の抽選会もあります。

 新宿ピカデリーの スクリーンは10個ですが、

 「プラチナシート」 という VIP席もあります。

 二人で個室感覚が味わえるという 3万円のプラチナルームと、

 一人5千円の プラチナシートがあります。

(σ (^^;)はそんな所で 観るつもりはありませんが。)

 一方、最前列は平日千円という リーゾナブルなサービスもあります。

 でもこの席は やっぱりちょっときついですね。

 メンバーズカードは、映画を6本観ると 1本無料で観られます。

 千円の日に観れば、6千円で7本ですね。

 同じサービスのカードは、TOHOのシネコンと シネカノン系列にもあり、

 僕はどちらも持ってます。 (^^)

 TOHOは 毎月14日(とおフォー)が千円、シネカノン系列は 水曜日が千円です。

 エコノミーなサービスが 本当に増えました。

 誕生日月に千円 というのもありますし。 (^^;)

 というわけで、身近な新宿に また新たなスポットができて、楽しみが増えました。
 

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2008年7月20日 (日)

「おくりびと」 (3) (うちの場合)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55197261.html からの続き)

 僕も数年前、立て続けに 別れを体験しました。

 母、心子、祖母、父……。

 それを思い出しながら、映画を観ていました。

 母は病院で納棺され、実家に運ばれてきたので、

 僕は納棺の場に 立ち会うことはありませんでした。

 父のときは、病院から実家まで ストレッチャーに乗せて 車で運ばれてきて、

 二日後くらいに 家で納棺を行ないました。

 葬儀社から係りの人が 3人やってきましたが、リーダーの人は 温水洋一似で、

 しんみりした場に いかにも似つかわしい 風貌でした。

 この人は 顔でこの仕事に 配属されたんじゃないかなと、内心思ってしまいました。

 見習いの人もいて かしこまっていましたが、

 毎回 死人の相手をする仕事を 担当させられて、

 楽しくないだろうなと 思ってしまったものでした。

 僕も こういう仕事に対する 理解がなかったんですね。

 納棺の儀式は 映画と同じではありませんでしたが、

 係の人に指示されて、遺族が一人ずつ 父の体を清める 所作もしました。

 初めてのことで 少し戸惑いましたが、僕は気持ちを込めて お清めをしました。

 でも僕の兄などは、かなり違和感を感じたようです。

 いきなり そんなことをさせられて、その場で断るわけにも いかなかったものの、

 あとで文句を言っていました。

 しかし 元々伝統的な 清拭の儀式だったんですよね。

 あるいは父は そういうことをされるのを、余り好まない 人だったかもしれません。

 また事前の説明もなく 費用に含まれてしまうことも、

 出費者の兄には不満だったでしょう。

 でも僕は、父と別れの儀式ができて、

 そういう形で 父に触れることもできて、とても良かったと思っています。

 都会の葬儀で こういうことがどのくらい 行なわれているのか知りませんが、

 習慣として 広まってもいいことだと思います。

(前もって説明は あったほうがいいかもしれません。)

 ところで、映画では 寝間着から白装束に 着替えていましたが、

 父の場合は 普段着ていた服に 着替えました。

 和服なら 寝たまま着替えさせることも 可能ですが、

 洋服だと それは難しいのではないでしょうか。

 その時だけ 家族は部屋の外に出されました。

 想像ですが、洋服の背中を はさみで切って着せたのか、

 遺体を起こして 着せたりしたのかもしれません。
 

 今回 この映画を見て、僕も納棺師の仕事に 魅力を感じました。

 自分もこの仕事をしようかと 思ってしまったほどです。

 なかには、この映画を観て 納棺師になる人も 出てくるのではないでしょうか。

 そうだとしたら、映画にとっても、納棺師にとっても、幸いなことでしょう。
 

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2008年7月19日 (土)

「おくりびと」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55184485.html からの続き)

 大悟は 妻の美香 (広末涼子) に 自分の仕事の内容を言えず、

 冠婚葬祭関係とごまかしていました。

 ところがある日、とうとう美香に 仕事のことがばれてしまい、

 美香は 「けがらわしい!」 と言って 実家に帰ってしまいます。

 友人からも 「まともな仕事に就け」 と言われ、

 内心反発しながらも、きちんと 言葉にできない大悟。

 人は誰でも 必ず死ぬ、死ぬことは 普通のことなんだ。

 納棺師は 悲しい別れを、優しい愛情で 満たす仕事なんだ……。

 美香は 妊娠したことが分かって 戻ってきますが、

 「自分の仕事を 子供に誇れる?」 という質問に、

 大悟はまだ 言葉に詰まってしまいます。

 しかし、知り合いの 銭湯のおばあちゃんが急死して、

 納棺式に立ち会った 美香は、厳粛な夫の仕事に 圧倒されるのでした。

 そして、生前おばあちゃんが 愛用していたスカーフを 首に巻いてあげる、

 夫の優しさに 心を打たれます。

 誰でもが 「おくりびと」 になるし、「おくられびと」 にもなるのです。

 でも 日常から死が遠ざかっている 現代人は、死を忌避してしまいがちです。

 映画は、旅立ちの静謐さを 改めて教えてくれます。

 それは本来、自然で穏やかに 迎え入れるべきものでしょう。

 故人の在りし日の 面影を取り戻し、送別のお手伝いをするのが 納棺師の勤めです。
 

 大悟の父親は、大悟が幼いときに 女を作って家を出て行き、

 大悟は父親の顔を 覚えていません。

 母親も2年前に 世を去りました。

 大悟は 父を憎んでいますが、そこへ突然、父の訃報が舞い込みます。

 父を引き取る気もない 大悟ですが、

 じわ~っと感動する クライマックスへと 話は進んでいくのです。

 大悟が奏でる チェロの音色、

 「石文 (いしぶみ) 」 と言われる、自分の気持ちを表した石を

 相手に渡すというエピソードも、映画のキーポイントになっています。

 監督は滝田洋二郎。

 「名作」 と呼ぶのに相応しい、

 ユーモアと感動に溢れた 日本映画が、新たに誕生しました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55208477.html

 

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2008年7月18日 (金)

「おくりびと」 (1)

 
 納棺師 (のうかんし)。

 遺体を清めて 柩に納める仕事の 映画です。

 ちょっと辛気臭くて、敬遠されそうな職業のように 感じられてしまいます。

 しかし、親族の目の前で行なわれる 納棺の儀式は、

 静謐で、厳かで、死者に対する 敬意に満ちていました。

 故人の肌を 遺族に一切見せないように、遺体を清拭し、

 寝間着から白装束に着替えさせる 一連の手技は、一糸乱れぬ職人技です。

 生きていたときのように 死に化粧を施す指先は、

 何よりも亡き人への 愛情が溢れてます。

 遺族にも一人一人 清拭をしてもらいます。

 それが 旅立つ人と残される人の、最後の心の交流になるでしょう。

 合掌の仕方など、ひとつひとつの所作が 厳格に定められていますが、

 時には臨機応変に、個人的な心尽くしが 振る舞われます。

 ルーズソックスを履きたいと言っていた おばあちゃんのために、

 足袋の代わりに ルーズソックスを履かせたり、

 大往生のおじいちゃんの顔一杯に 娘たちがキスマークを付けて 送ったり。

 悲しみのなかに 微笑ましさが漂います。

 映画の舞台は田舎でしたが、東京では納棺式など あまり知られていないでしょう。

 納棺は、元々は親族が 行なっていたそうですが、葬儀屋が執り行うようになり、

 さらに納棺の業者が 下請けするようになったということです。
 

 主人公の大悟 (本木雅弘) は、「旅のお手伝い」 という求人広告を見て、

 旅行会社だと思い 面接に行きます。

 ところが、出てきた社長 (山崎努) は、「旅立ちのお手伝い」 の誤植だな

 と言って、大枚を差し出して 大悟を雇ってしまいました。

 大悟の初仕事は、孤独死した 老人の遺体。

 死後2週間経っていて、悲惨な現場は 大悟にとって余りにショッキングでした。

 でも大悟は、社長の納棺の儀式を目にして、

 次第に納棺師の仕事に 気持ちが傾いていきます。

 ある遺族は、死に化粧を施された妻が 「今までで一番きれいだった」 と言って、

 涙を流して 社長に頭を下げました。

 ときには 遺族の喧嘩に巻き込まれたり、

 女性だと思った故人が ニューハーフで “あれ” が付いていたり。

 悲喜こもごものエピソードを、映画はユーモラスに描いていきます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55197261.html

 

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2008年7月17日 (木)

「クライマーズ・ハイ」

 
 1985年、群馬県・御巣鷹山に墜落した 日航ジャンボ123便。

 死者540人を出した、史上最大 最悪の航空機事故。

 当時、奇跡的に助かった少女が 自衛隊員にしっかりと 抱き抱えられて、

 ヘリコプターに つり上げられていく映像を、僕もはっきり覚えています。

 でも その裏では、事故を連日報道し続けた 地元新聞社の中で、

 様々な人間関係が交錯する、もうひとつのドラマが 繰り広げられていたのでした。

 原作は、自身が新聞記者として この事故の取材に当たった 横山秀夫が、

 実体験を元に描いた 同名小説です。

( 他の作品に 「半落ち」 「出口のない海」 など。)

 主人公の・悠木 (堤真一) は、

 社内の 抜いた抜かれたの競争から 一線を画した、実直な一匹狼の 遊軍記者。

 ワンマン社長 (山崎努) の鶴の一声で、

 未曾有の墜落事故の 全権デスクに抜擢されます。

 編集局の上司は、かつて 連合赤軍や大久保清の報道をした、

 過去の栄光にしがみつく “恐竜”たち。

 新聞記者は足で稼ぐものだという 時代錯誤の考えで、

 局内には 無線機さえ導入していません。

 悠木は キャップの佐山 (堺雅人) を、“丸腰で” 現場の山に送り込みます。

(当然、携帯電話はまだありません。)

 佐山たちは 救護隊の無線機や 民家の電話を借りながら、

 悲惨極まり事故現場の取材を 必死で行ない、記事を悠木に伝えます。

 しかし編集局長たちは 悠木に嫉妬し、佐山の記事が 一面に掲載される妨害をします。

 妬み、手柄争い、部下との板挟み、信念と利害のぶつかり合い,

 締め切り時間との 1分を争う闘い、編集局と販売局の 確執と権謀術数、仲間の死…。

 凄まじい緊迫感と 葛藤が渦巻いていきます。
 

 悠木は 記事を掲載するには、情報の裏を 確実に取ること、

 「チェック、ダブルチェック」 を 信条にやってきました。

 苦労の末、事故原因についての スクープを入手しましたが、

 100%確実とは 言い切れないものがあります。

 他社を出し抜くことを迫る 次長との言い争い、記事を掲載するか否か、

 悠木は究極の選択を 迫られるのでした……。

 実話を元にした話ですが、男同士の 互いの人格否定にも繋がる 激しい諍い、

 こういう激突のなかで 人間は錬磨されていくのだなと、思いを馳せました。

 当時のできごとと、主人公の 現在の登山のシーンが カットバックされて、

 効果的な物語を 紡ぎだしていました。
 

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2008年6月 7日 (土)

「奇跡のシンフォニー」

 
 生まれながらに 音の才能を持っている少年 エヴァン (11才)。

 親の顔も知らず、施設で育てられましたが、必ず両親に会えると 信じています。

 孤児院を抜け出して 母親を探しに行く子の映画 「この道は母へとつづく」 と、

 盲学校で 音楽の才能を見いだす少年の映画 「ミルコのひかり」を、

 合わせたような話です。

( 「この道は母へとつづく」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51068187.html
  「ミルコのひかり」 http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50799705.html

 エヴァンの母ライラは チェリスト,父ルイスは ロックのギタリストで、

 エヴァンはその素質を 受け継いでいたのです。

 11年前、ライラとルイスは 巡り合わせの一夜を過ごしましたが、

 ライラの父親によって 引き裂かれました。

 エヴァンを身ごもっていた ライラは、臨月に交通事故で 手術を受け、

 そのとき父親が 無断でエヴァンを施設に渡して、

 ライラには 子供は駄目だったと 告げていたのです。

 今では ライラもルイスも 音楽から離れ、ばらばらに過ごしています。

 ある日 エヴァンは、両親に会うため 施設を出て行きます。

 初めての都会の喧騒、エヴァンの天性の耳は、そこにも音楽を聴き取ります。

 楽器の演奏などしたこともない エヴァンですが、

 初めて触ったギターを 独特な流儀で “鳴らし”、注目を集めます。

 基本的な和音を教わっただけで パイプオルガンを弾き、

 天分を見いだされて 音楽院に入学。

 エヴァンは 紛れもない神童でした。

 知らない人間が見たら 落書きにしか見えない、現代音楽のような楽譜を

 ノートに書きなぐり、狂想曲 (ラブソディー) を作曲します。

 沢山の人に 曲を聞いてもらえば、きっと両親に伝わる。

 そして ラストのコンサートシーンに、物語は紡がれていくのです。

 主役のフレディ・ハイモアが、目に見えない 音楽の世界を、

 子供とは思えないような 豊かな表情で表現しています。

 親を求める エヴァンの心、我が子を思う ライラの愛情、ライラを追うルイス、

 それぞれの思いと行動が、互いに誘い合うように 絡んでいきます。

 まさに 現代のおとぎ話。

 映画全体が ひとつの交響曲のようでもあり、

 音と映像が相まって 絶妙の情感をかもし出し、目が潤みっぱなしの 2時間でした。
 

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2008年5月16日 (金)

「実録・連合赤軍  あさま山荘への道程 (みち) 」 (5)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54251261.html からの続き)

 浅間山荘事件が起こる直前、

 永田と森は 偵察という名目で 一時山を下り、同衾します。

(同志の男女が キスしただけで処刑した この二人が。)

 永田は 前夫の赤軍書記長・坂口と別れ、森と結婚することにします。

 ところがこの間に、二人は警察に通報され、あっけなく 逮捕されてしまいます。

 そして  山に残されたメンバーのうち5人が、

 警察の追手を逃れて 浅間山荘に立てこもることになります。

(うち二人は未成年、一人は現役高校生でした。)

 人質になった 山荘管理人の妻に対して、メンバーは 彼女を絶対に傷つけない,

 警察が攻めてきたら 全力で守る、と約束します。

 同志で “総括” を行なってきた 彼らは、

 民間人を犠牲にしないという 信念を守ったのでした。

 そこに彼らの 最後の純粋さを見て取ります。

 しかし、元々の理念は 崇高だったはずなのに、

 その方法論が 恐ろしい異形のものへと 変容していってしまったのです。
 

 獄中の森恒夫は、司法の裁きの前に 自ら命を絶ちます。

 やはり 己の運命に立ち向かえずに 逃げた、弱い人間だったのでしょう。

 永田洋子は 死刑が確定し、現在も勾留中です。

 山荘に立てこもった メンバーの中で、書記長の坂口は死刑確定。

 現在、再審請求中です。

 残りは 有期懲役刑になっています。

 この事件を境にして、学生運動は 急速に下火になっていきました。

 人間は常に、振り子の揺り戻しを 繰り返すのでしょう。

 その点は ボーダーの人も似ているようです。

 時代はその時によって 様々な現れ方をするわけですが、

 人間の本質は 通ずるものがあるのかもしれません。

 出演者である 現代の若者たちは 初め、

 連合赤軍の兵士たちの心情が 全く理解できなかったといいます。

 しかし 若松監督の下で、懸命に彼らの心裏に 近づいていこうとしました。

 この映画を見る若者も、なかなか理解できないかもしれません。

 けれども事件から、人間の心の闇にあるものを 学びとっていくため、

 この歴史のひとコマを 風化させてはならないでしょう。

 若松監督の執念が 刻み込まれた作品だと思います。
 

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2008年5月15日 (木)

「実録・連合赤軍  あさま山荘への道程 (みち) 」 (4)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54235183.html からの続き)

 僕も若いとき、創作によって 社会を変えたいと思い、

 前衛的な思想に駆られていた 時期がありました。

 ある天才的な同人誌仲間と、現実離れした 観念的な世界に生きていました。

 社会を良くしたいという 歪んだ善意で、信念を持っていちずに 邁進していたのです。

 しかしその方向性が 間違っていました。

 ラジカルな思想を構築していき、批判精神を研ぎ澄まし、人を傷つけもしました。

 そんなことを重ねていった結果、失恋も絡んで、自分がその何百倍も傷つき、

 自分の価値観を 完全に打ち砕かれ、甚大な挫折を 体験することになったのでした。

 20代のときは、現実社会の動かしがたい重みが 分かりませんが、エ

 ネルギーと熱意はあり余り、過激に傾倒しがちです。

 それで破綻して頓挫するまで、どういう結果が待っているか

 気付くことはできないのです。

 従って僕も、連合赤軍のアブノーマルな偏向が、全く理解できないわけではありません。

(そのとき 僕を救ってくれたのは、同じアパートの友人であり、

 ロマン・ロランの 「ジャン=クリストフ」 でした。)

 それからまた、記憶に新しいところでは、あの 「オウム事件」 があります。

 信者は誰もが初めは、真理を求め、自分を成長させて、

 人のためになりたいと 願っていたはずです。

 ところが オウム真理教という ねじれた教義に染められ、

 マインドコントロールという 物理的・強制的な手法もありましたが、

 通常は考えられない蛮行を 犯すまでになって行ってしまいました。

 純粋で 高いものを求めている人間ほど、

 一歩間違えれば 常識はずれの道を 突き進んでしまうのかもしれません。

 そして 松本智津夫もまた、臆病な人間でした。

 ヒトラーも然りです。

 そういうことから考えれば、連合赤軍の暴挙は 全く不可解なでき事ではなく、

 誰もがそうなる可能性を 秘めているとも言えるでしょう。

 若松監督は、それを我々に 突きつけているのかもしれません。

 翻って現代は、長期にわたる不況で 先が見えず、

 自分の力で世の中を変える 夢想をするどころか、

 自分自身の将来さえ おぼつきません。

 社会と関わることを避けて 引きこもったり、心を病む若者が 増えています。

 30年ばかりの間に、日本は何と 変わってしまったことでしょうか。

 だが そんな社会でも、何か特殊な空間に 取り込まれると、

 時代によって 形は変わっても、同じような過ちを 犯す可能性が、

 人間の心の病的な部分には 潜んでいるのかもしれません。

 あと何年かしたら、今度はオウム事件が 映画化されるときが来るでしょう。

 そのとき我々は、何を見せつけられることになるのでしょうか。

(続く)
 

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2008年5月14日 (水)

「実録・連合赤軍  あさま山荘への道程 (みち) 」 (3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54217435.html からの続き)

 坂井真紀演ずる遠山美枝子も、永田洋子の餌食にされます。

 大山は 自分が “総括” の意志が あることを示すため、

 同士の裸の遺体を おぶって運び、土に埋めながら “自己批判” させられます。

 映画でリンチシーンを映すには 限界があるのでしょうが、

 暴行による外傷性ショックで 死に至るというには、

 相当 執拗で壮絶な暴力が 行なわれたのだろうと思います。

 ネットで調べると、映画では描かれなかった 陰惨な暴行もあったようです。

 非難の内容も、永田や森の 個人的な嫉妬 (コンプレックス) や

 怒りに触れたものになっていきます。

 遠山は、男に色目を使うと 永田に言いがかりを付けられ、

 自分で自分を殴れと 命じられます。

 そして 無残に変形した顔の前に 鏡を差し出され、見ることを強いられたのです。

 そのあとは 柱に縛りつけられ、垂れ流し状態で、

 精神的にも異常をきたして 絶命……。

 連日のように 死者が出て、矛先は 幹部にも向けられていきます。

 森を批判した幹部は、アイスピックで滅多差しに。

 “総括” ではなく、反対者に対する “処刑” です。

 “総括” の犠牲者は11人、

 8ヶ月の子を 身ごもっていた女性もおり、その子を含めれば 12人です。

 一体、どうして人間は ここまで狂気に走ってしまうのか? 

 森はかつて、一旦は組織から 逃亡した人間でした。

 再び戻ってきたとき、幹部たちは逮捕されて、森が主導者になっていったのです。

 森は元々 極めて臆病な人間だったのでしょう。

 弱い人間ほど 強がったり、力に訴えて、自制が効かず 暴走してしまいます。

 異常な思想に取りつかれ、閉塞した空間で、感覚が麻痺していき、

 自らが 失墜したり被害者にならないため、追い詰められて、

 そうする以外 なくなってしまうのではないでしょうか。

 もちろんこれは 頭で考えるだけのことで、

 実際のその状況で 人間がどんな心理状態に なるのかは分かりません。

 しかし、わずかでも 人心を掴む知恵があったなら、

 こんな異様な事態には 陥っていかなかったでしょう。

 人は心で動くものであり、力でねじ伏せようとする者は、

 いずれ 間違いなく破滅するのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54251261.html

 

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2008年5月13日 (火)

「実録・連合赤軍  あさま山荘への道程 (みち) 」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54202851.html からの続き)

 1971年、残されたメンバーは 潜伏して先鋭化していきます。

 「革命は 一発の銃弾から起こる」 という狂信から、

 銃砲店や派出所を襲って 銃を奪い、現金を強奪して 武装化を図りました。

 体制打破,理想の国家建設という 思想に燃えながら、

 やっていることは 単なる強盗と変わりがありません。

 この頃、共産主義者同盟 赤軍派の残党と、革命左派の人民革命軍が 統一されて、

 「連合赤軍」 が結成されます。

 実態は、革命左派・永田洋子と 赤軍派・森恒夫の 独裁体制でした。

 連合赤軍は 20数名で山にこもって 軍事訓練を始めますが、

 素人の “戦争ごっこ” のようなものでした。

 巨大な国家警察に 歯向かえるわけもなく、

 個人が “共産主義化” していくことでしか、

 革命は成し遂げられない という空論を掲げ、狂った事態へと 突き進んでいくのです。

 各自が “革命的” になるために、自分の失敗や 至らないところを、

 “総括” と称して “自己批判” することを 強要されます。

 しかし 咎められる内容というのは、山籠もりの時に 水筒を忘れたとか、

 警察の取り調べ中に 親子丼を食べたのは 日和見主義だとか、

 交際していた男女が キスをしたとか、普通なら当たり前のことでした。

 けれども メンバーの中には、どうすることが “総括” になるのか、

 理解できない者もいました。

 やがて、 “総括” の方法に、

 暴力という “指導” が 加えられることになります。

 気絶して 目が覚めたときに、“共産主義化” がなされるという暴論で、

 全員が殴打に 加担しなければなりません。

 逃れようものなら、自分が “総括” の対象と なってしまうのです。

 顔が原形をとどめないほど 集団リンチを受けたあとは、

 極寒のなか 木に縛りつけられて 放置されます。

 食料も与えられず、間もなく 息絶えていくのでした。

 森は、自分たちが 彼らを殺したのではなく、

 彼らが共産主義化できずに 自分で死んだのだと言います。

 “敗北死” だと 位置付けるのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54235183.html

 

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2008年5月12日 (月)

「実録・連合赤軍  あさま山荘への道程 (みち) 」 (1)

 
 1960年代の学生運動の中から 連合赤軍が生まれて、

 「総括」 と称する 凄まじい連続リンチ殺人が行なわれ、

 浅間山荘事件へと発展していく 過程を描いた、若松孝二監督・渾身の作品です。

 3時間10分の大作ですが、全く長さを感じることなく、

 スクリーンに釘付けになりました。

 あの時代に、何故あのような 凄惨な事件が起きたのか、

 若者たちは何故 狂気に陥っていったのか、

 若松監督は 同じ時代を生きた者として、

 何としても 残しておかなければならないという 執念で取り組みました。

 浅間山荘事件が起きた当時 テレビ各局は、終日 浅間山荘を放映し続けました。

 僕も学校から帰ると、母親が テレビを点けっぱなしにしていたことを 覚えています。

 でも僕は 政治や社会的なニュースには まだ余り関心はなく、

 事件の背景などは 知りませんでした。

 また、京大は 学生運動のメッカでしたが、

 僕が入学した頃は その残り火がくすぶっていた感じで、

 立て看板やゲバ学生の姿が 垣間見られたくらいでした。
 

 映画では、当時の状況を 時系列で描いていきます。

 学費値上げ反対に 端を発した学生運動は、国家権力に対抗し、

 三里塚闘争など 農民や労働者と 観念的に結びついて、全国的に拡大していきました。

 そんな活動に参加した 学生の一人に、遠山美枝子がいました。

 演ずるのは、この映画の主要人物の中で 唯一著名な俳優、坂井真紀です。

 彼女は元々 この事件に関心があり、自らオーディションに 飛び込んだのだそうです。

 学生たちは各地で 激しい暴動を起こし、

 数百人,数千人単位の逮捕者や、不幸な犠牲者までも出してしまいます。

 国は 徹底弾圧に躍起になり、「赤軍罪」 という言葉まで使われて、

 微罪逮捕で 取り締まりを強化していきました。

 よど号ハイジャック事件などを経て、幹部たちは次々と検挙され、または国外逃亡し、

 組織は弱体化していきます。

(海外逃亡したメンバーの中に 重信房子がいました。

 ここだけの話  (^^;)、心子の本名 (下の名) は 実は彼女と同じです。)

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/54217435.html

 

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2008年4月 6日 (日)

「銀幕版 スシ王子!  ~ニューヨークへ行く~ 」

 
 毎回、どんなジャンルの 映画を撮っても、

 秀抜した手腕と センスを見せてくれる、堤幸彦監督の作品です。

 今回は、“いま面白いこと” をごった煮にした、

 何でもありのエンターテイメント。

 生まれついての寿司職人、米寿司 (まいず つかさ・堂本光一)。

 10才のとき、父と祖父が カジキマグロに突き刺されて死んだ トラウマで、

 魚の目を見ると パニックを起こす 「ウオノメ症候群」 に なってしまいます。

 寿司の道を捨て、琉球唐手の達人に 弟子入りするも、

 唐手の道は寿司の道、寿司の握りは唐手の握り ということを悟る。

 そして、シャリを極めようと、

 “シャリの達人” 俵 源五郎 (北大路欣也) に 弟子入りするため、

 寿司の新天地 ニューヨークに乗り込みます。

 日本刀で青竹を切るのが 寿司の握りを極めることだとか、

 米の心を読むのが 唐手の極意だとか、琉球唐手300年の怨念だとか、

 ふざけたことを 真剣そのもので全力投球すれば、

 観客の笑いをも 極めることになるのでしょう。

 もちろん 小ネタてんこ盛りです。

 合い言葉は、「お前なんか、N.Y. (握ってやる)! 」

「よっ、スシ王子!」

 グルメ、アクション、笑いあり、涙ありで、

 常に ツボを掴むことを外さない、堤監督の才覚は 羨ましい限りです。

 どこまで新天地を 切り開いていくことでしょう。
 

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2008年4月 4日 (金)

「クローバーフィールド  HAKAISHA」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53571264.html からの続き)

 「クローバーフィールド」 は、作品自体も 前代未聞の斬新なものです。

 最初から最後まで 全て、素人が撮っている ホームビデオによる映像です。

 突如 マンハッタンを襲った何者か、“HAKAISHA” (破壊者)。

 登場人物たちにも その正体は全く分からず、“あれ” と呼ぶしかありません。

 “あれ” の攻撃を受けて、命懸けで逃げ回る人物たちを、ビデオが撮り続けます。

 画面は右往左往し、手振れで激しく揺れるし、

 時には あらぬものが映されたり、カメラを落としたりします。

 それによって観客は、自分が 事件の真っ只中にいるかのような

 臨場感に包まれるのです。

 “あれ” はなかなか カメラのフレームに納まらず、その姿も定かになりません。

 終盤になって やっと全体が捉えられますが、じっくり映されることはなく、

 何なのか よく把握できない状況です。

 最後は カメラマンもやられてしまい、その先どうなったのか、

 “あれ” の正体も 分からないまま映画は終わります。

 続編の制作が 決まっているそうです。

 ビデオカメラだけの映像は 否応なく緊迫感を煽りますが、

 映画作品としては 極めて多くの制約を受けます。

 アングルは全て 一個人の目線です。

 俯瞰やロング,切り返しもなく、

 エイゼンシュタインの モンタージュ理論は通用しません。

 構成も、カメラマンの移動に合わせて、直線的な時間が進むだけです。

 また、素人が撮っている映像らしく 見せるために、

 スタッフは普段以上の 難しいテクニックを求められました。

 一流の腕を持つ プロのカメラマンにはできないことなのです。

 そこで カメラマン役の俳優に、

 実際にカメラを持たせて 撮ったシーンが沢山あるそうです。

 そして 一切が偶然のショット、パニックの中の “取り損ない” であるように

 見せるため、撮影には周到な計画が 立てられなければなりませんでした。

 また、CG映像と ホームビデオの組み合わせは、困難を極めたということです。

 激しく揺れたり 振れたりするビデオのフレームに、

 CG画像を ひとつずつ手作業で 組み合わせていかなければならなかったといいます。

 それら独自の作業によって 作られた映画は、

 観る側を終始 緊張させる “予測不能” の作品になりました。
 

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2008年4月 3日 (木)

「クローバーフィールド  HAKAISHA」 (1)

 
 話題作 「クローバーフィールド」 の ジャパンプレミア試写を観てきました。

 会場は、3月19日にオープンしたという、水道橋のJCBホール。

 「クローバーフィールド」 は、今までにない 異例のプロモーションで

 注目を集めました。

 映画館で 予告編が流れる中、ホームビデオの映像が出てきて、

 パーティの風景が映されます。

 突然 大音響と共に 建物が揺れ、パーティの参加者たちが 屋上へ出ると、

 マンハッタンらしき 遠方の高層ビルが 大爆発を起こし、その破片が飛んできます。

 慌ててビルの中に逃げ、今度は地上へ出ると、

 再び爆発が起きて 道路に落ちてきたのは、何と 自由の女神の頭部。

 映像は 全てホームビデオです。

 映画の宣伝文句も タイトルさえもなく、

 実際のニュース映像なのかとも 見紛うものです。

 全米では、ネット上でも 様々なミスリード,怪情報が飛び交い、

 話題騒然となったそうです。

 やがて 題名が明かされた 「クローバーフィールド」 の仕掛け人は、

 今ハリウッドで 最も注目されているという プロデューサー・

 J.J.エイブラムス。

 このプロモーションのキーワードは、『予測不能』。

 プレミア試写会でも、何が起こるか “予測不能” でした。

 会場に入るや、暗い場内に 異彩を放つライティング,

 「クローバーフィールド」 の映像と 音響が流されています。

 開始時刻になって、司会の襟川クロが 出てきますが、

 彼女自身も何が起こるか 知らされていません。

 司会のクロが紹介した映像と 別の映像が映されたり、

 いきなり マジシャンのセロが登場したり、

 クロが話している途中に いきなり 大きな音楽と映像が始まったり。

 そして極めつけは、スクリーンになっていた カーテンが開いて、

 スモークと赤い光に包まれて 出てきたのは、

 予告編で吹っ飛ばされた、あの 自由の女神の頭部でした。

 そこへ エイブラムスはじめ、キャスト,監督らが登場し、

 クロもすっかり 翻弄されていました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53585239.html

 

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2008年3月31日 (月)

「モンゴル (MONGOL)」

 
 12世紀 モンゴル統一を果たした チンギス・ハーン (テムジン) の、

 壮大な “叙情詩” です。

 昨年日本でも、チンギス・ハーンの一代記を描いた

 角川春樹制作の 「蒼き狼」 がありましたが、

 ロシア人監督 セルゲイ・ボドロフの手による 「モンゴル」 は、

 比べ物にならない 深遠な作品を作り上げました。

 人間描写の重厚さ,映像の荘厳さ,音楽の脈動、言葉にならない表現から、

 作品の奥行きが伝わってきます。

 作者の人格的な深みが、それらに現れるのです。

 絵画,音楽,舞踊など、言葉以外による芸術でも、

 作者の思想,経験,人間観などが、否応なく表出されるわけです。

 もちろん そこに技術 (表現力) が伴いますが、

 技術とは 実は作者の世界観 そのものに他なりません。

 「蒼き狼」 の出演者は 反町隆史、菊川怜ら日本人で、セリフも日本語ですが、

 「モンゴル」 は 全編モンゴル語で、役者も モンゴル人や中国人などです。

 目のぱっちりした 現代的な美形ではなく、

 いかにも 12世紀のモンゴル人顔をした 俳優陣が、

 リアリティある重みを 感じさせてくれます。

 アジア人役者の中から 主役に抜擢された浅野忠信は、

 テムジンのカリスマ性を 見事に体現していました。

 モンゴル語のセリフを習得し、乗馬やモンゴルの殺陣も 自ら演じています。

 「蒼き狼」 では、テムジンの幼少期から 国家統一までの史実やドラマを、

 分かりやすく 描いていたのに対し、

 「モンゴル」 は それらを大幅に省略した分、

 テムジンの精神的な世界を 表現していました。

 テムジンの生涯には 空白の期間があります。

 ボドロフ監督は、その間 彼は投獄されていたのではないか という説を取り入れ、

 映画の重要な部分に 据えています。

 獄中でテムジンは 修行僧のように瞑想を深め、

 国家統一のための 哲学を確立していったといいます。

 まるで 石仏のようなメイクと、浅野忠信の存在感は 印象的でした。

 勇猛さと慈愛を併せ持ち、独創的で自由な人間・テムジンを 描き出した大作は、

 アカデミー外国語映画賞 候補作です。
 

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2008年3月28日 (金)

「ぼくたちと駐在さんの 700日戦争」

 
 人気ブログ小説から生まれた、半分実話という 新感覚映画です。

 監督は 「時効警察」 の塚本連平、主演は市原隼人,佐々木蔵之助,麻生久美子。

 イタズラに青春をかけている ママチャリ (市原隼人) と、6人の高校生たち。

 その町に赴任してきた 駐在さん (佐々木蔵之助)。

 彼らの間に、凄まじいイタズラ合戦が 繰り広げられます。

 次々とイタズラを考え出す ママチャリたちに対し、

 駐在さんは 国家公務員であることも忘れて 反撃する、

 日本一 大人げない男なのでした。

 塚本監督は、「時効警察」 の 脱力感あふれる演出とは 様変わりし、

 バイタリティとスピード感のある コメディに仕上げています。

 そして やはり小ネタは満載。

 舞台は1980年の栃木で、当時のヒット曲や小道具も 巧みに散りばめられています。

 終始 笑わせられ、そして 最後にほろりとさせる エンターテイメントでした。

 市原直人は表情豊かで、テンポもよく、コメディも見事に演じています。

 試写会では 出演者たちの舞台挨拶。

 これはイタズラの映画 ということで、その時もイタズラの連発でした。

 まず 司会者の前説により、来場客全員に配られていた 紙のお面を、

 合図で一斉に被って、出演者を驚かすというもの。

 一緒にやってあげました。σ (^^;)

 市原隼人がドラマ撮影のため 間に合わないかも知れない と司会者が言い、

 会場から溜め息が漏れると、市原隼人が 作品中のママチャリに乗って 舞台に現れ。

 出演者が座る椅子にブーブークラクション という古典的なイタズラのあとは、

 市原隼人のマイクに 仕掛けがされていて 甲高い声になってしまったり。

 素直に楽しめた ひとときでした。

 原作のブログ小説は、アクセスランキング20ヶ月No.1 という記録を更新中で、

 今も毎日 書き続けられているそうです。

 書き込まれたコメントによって 翌日のストーリーが変わったり、

 コメントを付けたユーザーを そのまま登場させたり、

 参加型ブログ小説の パイオニアだということです。

http://700days.blog69.fc2.com/
 

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2008年3月27日 (木)

「青い花火」 (3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53448581.html からの続き)

 10年前には 先取りしたテーマだったのではないでしょうか。

(心子と僕が 付き合い始める 前の年ですね。 (^^;))

 アダルトチルドレン,虐待,イジメ,引きこもり,自傷行為,

 そして、自分が自分であることの アイデンティティ、

 色々な問題が 含まれています。

 生きづらさを感じている人間が、自分と相対することによって、

 自分を回復していく 再生のドラマ。

 演出も凝っていて、心証に訴えかけてきました。

 NHKは時々、こういう珠玉のドラマを 放送してくれます。

 原作は鎌田敏夫で、放送文化基金賞本賞、演出賞 (若泉久朗)、

 女優演技賞 (桃井かおり,松尾れい子) の3部門を受賞。

 松尾れい子は、当時 ポスト広末涼子と言われたそうですが、

 何といっても その “目力” が 強烈な印象を与えました。

 ぶっきらぼうな物言いは、演出なのか 演技の未熟さなのか。

 大熱演で 異彩を放っていましたが、その後 あまり活動を耳にせず、

 どうしているのか 気にかかるところです。

 この作品は 前半を見ることができなかったにも拘らず、

 強く引きつけられ、記憶に残る 作品になりました。

 前半も見られたら、彼女たちの心の世界が

 もっとよく 感じられたであろうことが残念です。

 彼女らは ボーダーとまでは言えないと思いますが、

 親の虐待に遭ったり、親の期待に 応えようとしすぎたりした結果、

 自分自身の生き方を見失ってしまった アダルトチルドレンでしょう。

 彩佳は己の意志で そこから抜け出るため、

 その若さゆえ 手段は拙劣だったかも知れませんが、

 懸命に 自分の足で踏み出そうと もがいています。

 そんな彩佳の目には、人との交わりを拒んで 自分を閉ざして生きている、

 玲子が許せなかったのでしょう。

 それは 自分自身に対する、怒りや苛立ちだったように見えます。

 玲子は彩佳に触発され、彩佳も 自分をぶつける相手があったからこそ、

 お互い 立ち上がっていけたのかもしれません。

 回復への道は 一人で歩んでいくことはできず、支え合う存在は やはり大切です。

 タイトルの 「青い花火」 ですが、彩佳が 玲子と花火をしようと言い、

 二人で花火を持って 高架下を走るシーンに 因んでいます。

 玲子はそこに、彩佳の生の力を 感じるのです。

 或いは タイトルは、

 二人の人間の まだ未熟な 「青さ」 に 掛けているのかもしれません。

 青いながらも、無我夢中で瞬こうとしている、

 秘められた息吹を 表している気がします。
 

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「青い花火」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53431467.html からの続き)

 圧巻は、玲子が ビデオの編集をするシーン。

 バックから攻められる 彩佳の顔のアップが、複数のモニターに映し出され、

 玲子はそれを見ながら 編集作業をします。

 彩佳の鋭い眼が 玲子を睨むように並び、玲子は彩佳と 正面から見つめ合います。

 彩佳と玲子の 眼と眼の激闘。

 ビデオの中の 彩佳の演技は、正に 「自分は生きているんだ」 と

 必死に主張しているようです。

 そして玲子は 彩佳から逃げずに対峙し、自分自身とも 向き合っていくのです。

 ビデオ制作が終わり、彩佳は 会社を去っていきます。

 そして 何本ものビデオを ポストに投函し、告白します。

 自分も中学生のとき、クラスの男子を 苛めたことがある。

 高校で 自分が苛められて、初めて 彼の気持ちが分かった。

 自分は、声を上げられなかった 彼のために叫んだのだと。

「彼は私。 私は彼。 私は私。 皆とは違う。 文句あるか。

 これをやらなければ、私は生きていけなかった」

 彩佳のビデオ出演は、自分が自分として 生きていることの、

 死に物狂いの 叫びだったのでしょう。

 それが 玲子の心を動かした。

 そのあとで 玲子はスタッフから、彩佳の置き土産だという 携帯電話を渡されます。

 電話を持たない玲子に、人とのコミュニケーションの 象徴である携帯電話。

「いつか電話するって 言ってた」

 スタッフから そう告げられた玲子は、

 声を上げて ボロボロ涙をこぼすのでした。

 そして、田舎を走る電車の中に 玲子の姿。

 携帯電話に 彩佳が公衆電話から架けてきます。

 玲子は、虐待を受けた 母親に会いに行くことを 話します。

「そうしなければ、あたしも 生きていけないでしょ」

 彩佳は 自分の捨て身の演技が、玲子に伝わったことを確認し、目に涙を溜めます。

 知らない街の 電話ボックスから出てきた彩佳、その姿は 何とスキンヘッド。

 彩佳の、新たな場所での、次の一歩が 始まります。

 人込みの中を闊歩する、輝くような存在感が 際立っていました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53462117.html

 

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「青い花火」 (1)

 
 ミクシィの マイミクさんが教えてくれた、NHKの 1998年のドラマです。

 心の傷を負った 二人の女性が、自分の生きる証を獲得していく 闘いの物語です。

 DVDなども 売っていないということで、

 マイミクさんが 録画してくれたビデオを 貸してくれました。

 残念ながら 前半が録画されておらず、その部分は マイミクさんのあらすじ説明と、

 コピーしてくれた ネットのレビューで了解しました。

 皆さんも観ることができないでしょうから、ネタバレの感想を書きます。 (^^;)

 加藤玲子 (桃井かおり) は、いとこの矢島 (岸部一徳) と

 AVビデオの制作をしています。

 玲子は幼いとき 母親から虐待を受けており、

 摂食障害になったり、引きこもったりしていました。

 今も自閉気味で 人と関わることができず、

 部屋には電話もなく、自分の殻の中に うずくまって生きています。

 そこへやって来た 彩佳 (松尾れい子)、AVビデオに出たいと言うのです。

 彩佳の手に 吐きダコ 〔*注〕 を見つけた玲子は、

 彩佳に 自分と同じ姿を見て、出演を思い止まらせようとしますが、

 彩佳の気持ちは変わりません。

〔*注: 心子にもありました。
     過食嘔吐で 口に指を突っ込むため、手にできるタコです。〕

 彩佳は、玲子と自分が同じだと見られることに 反発します。

 自分は 玲子のように弱くはない、

 傷ついているからビデオに出るのだ などと思われたくない、と訴えます。

 そして、人との関わりを避けて生きている 玲子を批判するのです。

 玲子は その言葉から逃げるように、耳を背けます。

 NHK制作のドラマでもあるので、ベッドシーンは そのままは映しません。

 松尾れい子の顔だけの映像で、彼女の痛烈な眼光が 観る者を射抜きます。

 その苦しみの表情は、

 自分のアイデンティティを掴むための 苦悩でもあるかのようです。

 そして彩佳は、ビデオができ上がったら、

 自分を苛めた 同級生や先生,親たちに それを送るのだと言います。

 「これが私だ! 文句あるか!」 と 言ってやるのだと。

 うずくまっていた 玲子の胸に、彩佳の絶叫が 突き刺さります。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53448581.html
 

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2008年3月15日 (土)

「4ヶ月、3週と2日」

 
 今から20年前、チャウシェスク政権下のルーマニア。

 労働力確保のために 妊娠中絶が禁止されている中、

 女学生のオティリアが、ルームメイト・ガビツァの 中絶のために

 奔走する姿を描きます。

 タイトルは、妊娠期間を表しているということです。

 監督は新鋭 クリスチャン・ムンギウ。

 2007年 カンヌ国際映画祭で、パルムドール賞を 受賞した秀作です。

 劇的な演出や 音楽までも一切排し、

 カット割りのない 長回しの手持ちカメラで、オティリアたちの 動きを追います。

 彼らの生々しい息づかいが 緊張感を伝え、

 リアリティ溢れる映像が 映し出されていくのです。

 ガビツァは頼りなく、むしろ自分勝手で、いい加減な嘘を ついたりもします。

 ホテルの一室で 闇医者に堕胎手術を 依頼するのですが、

 ガビツァの不手際のために オティリアは、著しい犠牲を払うことになります。

 オティリアは 友達のためというよりも、

 暗鬱な空気の中で 何かに抵抗するように、突き進んでいきます。

 それは 束縛された社会の 支配に対して、

 一人の女性として 生きる姿勢を貫徹する 行為なのかもしれません。

 静かで 息詰まる展開が 最後まで見る者を引きつけ、

 ルーマニアの新しい力を 見せてくれました。
 

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2008年3月13日 (木)

「ジャンパー」

 
 テレポーテーション。

 瞬間移動 (=ジャンプ) する 超能力を持った青年の話です。

 15才のとき この能力に目覚めたデヴィッドは、

 一晩で世界中の景勝や モニュメントなどを堪能したり、

 “究極の自由” を謳歌していました。

 手にしたものも 一緒に移動できるので、

 銀行の金庫にジャンプして 大金を手に入れたり、放埒なこともしています。

 ところが、実はジャンパーは デヴィッドだけではなく、他にも存在していました。

 そして、ジャンパーを 悪の存在と見なして、

 抹殺を使命とする 「パラディン」 という組織が、彼らを追っていたのです。

 パラディンは、ジャンプを封じて感電させる 特殊な武器を手に、

 ジャンパーを追い詰めます。

 ジャンパーとパラディンの、追いつ追われつの 攻防が繰り広げられます。

 デヴィッドは 恋人ミリーには、この超能力を 明かしていませんでしたが、

 ミリーをも巻き込んでいくのです。

 ジャンパーは その能力が高まるにつれ、

 自分が接している より大きなものを、共に移動させることが できるようになります。

 能力の増大に伴って、アクションシーンは 大掛かりになっていきます。

 渋谷でのカーアクションも 見所です。

 スピーディなVFX、世界の観光地、スリルと葛藤、単純に楽しめる映画でした。

 そしてラストに、デヴィッドの母親の 秘密が明かされます。

 続編ができそうな 新たな作品でした。
 

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2008年3月10日 (月)

「接吻」

 
 一家惨殺事件を起こして、マスコミに 自分が犯人だと

 名乗り出た 坂口 (豊川悦司)。

 その逮捕現場を テレビの生中継で見た OL・京子 (小池栄子)。

 その瞬間 京子は、坂口と自分は 同じだと直感します。

 京子は常日頃、周囲からの疎外感を感じており、

 坂口に猛烈な共感を感じて 惹かれていくのです。

 京子は 坂口のことを徹底的に調べ、裁判を傍聴し、

 弁護士の長谷川 (中村トオル) を通じて 坂口に差し入れをしたりします。

 坂口は 法廷でも弁護士の接見でも、終始 無言を貫き通しますが、

 京子は坂口のことなら 全て分かると言います。

 狂気と隣り合わせの愛情に 身を委ねる京子。

 京子と坂口は 手紙を交わし、ついに獄中結婚をし、

 そして 驚愕のラストシーンを迎えるのです。

 万田邦敏監督から 出演を依頼された小池栄子は、当初 断ったそうです。

 何回脚本を読んでも、京子の言動が理解できず、好きになれないからと。

 しかし プロデューサーに説得され、また脚本を 10回くらい読み直して、

 少しずつ 京子に惹かれるものも 感じていったということです。

 それでも、ラストの京子の行動の意味が どうしても分からず、

 万田監督に聞いても  「意味って言うか……」 としか 言ってくれなかったと。

 そして、人間は 常に意味のある行動だけをするものではない、

 と思い至って 臨んだのだといいます。

 
 試写会上映後、会場で 万田監督との質疑応答がありました。

 試写会で 出演者の舞台挨拶が あることはありますが、

 約40分も時間をとって、監督と会場が じっくり語り合う機会は 普通ありません。

 万田監督は、頭が禿げて しょぼくれた、にこにこしてる おじさんという感じでした。

 僕は 例のラストシーンの意味を 尋ねてみました。

 監督は、意味は 京子がこれから考えていく,全て意味が あるものでなくてもいい、

 などと言いながら、こうして自分は 質問に答えて 納得してもらおうとしていると、

 自己矛盾を 吐露していた次第です。

 「作る」 という作業は 「意識的な」 作業です。

 現実の人間の 無意識な言動とは 根本的に異なります。

 脚本家や監督は、スタッフに質問された場合、

 全て 「言葉で」 説明できなければいけない と言われています。

 “理由” を求める僕としては やはり釈然としませんが、

 監督は憎めない人であり、強烈な印象に 残る作品でした。
 

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2008年3月 2日 (日)

「ラスト・コーション」

 
 「ブロークバック・マウンテン」 の アン・リー監督、禁断の愛の衝撃作。

(「ブロークバック・マウンテン」
  http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34019511.html

 舞台は 1940年前後の、日本占領下の上海。

 傀儡政権は 自国民の抗日運動を 弾圧しています。

 大学に入学して 演劇部に入った ヒロイン、ワン(タン・ウェイ)、

 劇団員に誘われ 抗日運動にはまっていきます。

 弾圧側の顔役、イー (トニー・レイン) に近づいて

 ハニー・トラップを仕掛け、暗殺の機会を伺うのです。

 演劇の延長で、殺人の謀略にまで エスカレートしてしまう学生たち。

 しかし 色仕掛けをしようにも、劇団員たちは一人を除いて 全員性体験がありません。

 しかもその一人も 娼婦相手だという。

 ワンは その男を相手に、床入りの練習をするのです。

 当時の抗日運動の 実態は知りませんが、ただの学生が そこまでするのかと……。

 一度は 殺害計画に失敗して 挫折するものの、

 3年後、ワンたちは再び イーに接触を図ります。

 今度は 本物の女スパイとして。

 ワンとイーは、虚々実々の駆け引きの中で、危険な情欲の逢瀬に 身を投じます。

 このベッドシーンが 極めて激しくて挑発的です。

 ぼかしが入っていますが、本当に“実演”をしているのではないか と思えるような。

 この刺激的なシーンに、タン・ウェイが 文字通り体当たりでぶつかり、

 見る者の 感情を揺さぶります。

 童顔のタン・ウェイは、女学生役も 難なく演じていましたが、

 一変して 妖艶な眼差しを見せつけ、大胆な濡れ場に挑んでいます。

 そして、相手を欺くための 手段だったはずが、次第に真実の愛に……。

 タン・ウェイはテレビドラマで 活躍していたそうですが、映画出演は初めて、

 1万人のオーディションで アン・リー監督から大抜擢されました。

 作品はヴェネチア国際映画祭で 金獅子賞を射止め、

 タン・ウェイは一躍 世界的な女優に名を連ねました。

 僕にとっても 非常に印象に焼きついた女性でした。

 「ラスト・コーション」 の原題は 「色戒」。

 「Lust」 は仏教用語で 「色」 「欲」 「感情」、

 「caution」 は 「戒め」 の他に、 「誓い」 の意味があるそうです。
 

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2008年3月 1日 (土)

「明日への遺言」

 
 第二次大戦の B級戦犯・岡田資 (たすく) 中将が、

 戦犯裁判にかけられて、自らの信念を携えて 堂々と戦い、

 部下を守って 全ての責任を背負っていく 実話です。

 米軍爆撃機の搭乗員を 日本軍が捕え、

 岡田資は 米兵を死刑に処すよう 命令しました。

 その罪を問われますが 岡田中将は、

 米軍機は 国際法違反である無差別爆撃をしたと 主張します。

 そして責任は、米兵処刑に直接手を下した 部下ではなく、

 命令した自分に全てあると訴えます。

 法廷の誰もが、岡田中将は部下を救うために、

 自分だけが 死刑になろうとしていると察します。

 弁護士だけでなく、ある時期からは 検察や裁判官までもが、

 岡田中将に 有利な答を促すような 質問をしますが、

 中将は断固として これを拒むのです。

 アメリカ人の弁護士と 岡田中将は心で結ばれ、

 検事も中将に 好意を感じるようになっていきます。

 そして 傍聴席から連日 中将を見守る家族は、

 誇りを持って 中将と気持ちを交わします。

 最後に中将は 公正な法廷に感謝をし、「本望である」 と述べて、

 粛然と死刑を 受け入れていくのです。

 中将以外の被告は、全て懲役刑 (重労働) でした。

 これほど毅然として、重い責任感を抱き、部下を思いやる人間が、

 戦争という 時代状況であったがために、死んでいかなければならない。

 それは 無名の兵士たちも同じですが、

 もし通常の時代に 岡田資が生きていたら、

 どんなに優秀で立派な 上司になっていたことでしょう。

 現代は、無責任で 社員や消費者のことを考えない 経営者も多いなか、

 我々は岡田中将のような 過去の偉人に、

 理念を学ぶ必要が あるのではないでしょうか。

 自分の運命から逃げずに、背筋を伸ばして対峙し、

 誠実に、愛情と気概を持って 生ききった、

 清廉な男の言葉が 心に残ります。
 

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2008年2月27日 (水)

「バンテージポイント」

 
 有楽町 国際フォーラムで、ジャパンプレミア試写を 観てきました。

 定員5000人という、僕が知っている中で 一番大きな会場ですね。
 

 米大統領が、大観衆の面前の演壇で 狙撃されます。

 シークレットサービスはじめ、8人の 重要な目撃者がいますが、

 それぞれの視点 (バンテージポイント) からは 異なった光景が見えています。

 TVディレクター,地元の私服警官,ビデオを撮っていた旅行者,

 暗殺者たち,事件とは無関係の女の子,大統領、

 様々なエピソードが展開します。

 映画は、狙撃直前の12:00amから 23分間の出来事を、

 それぞれの視点から 描きます。

 一人の視点の映像が終わると 時間が巻き戻され、

 再び12:00amから 別の人物の視点で描く という構成です。

 無関係だった幾つもの伏線が 次々と絡み合い、

 スピーディに 真相が明かされていきます。

 裏の裏をかき、さらにまたその裏をかく 陰謀,策略。

 サスペンスあり、カーチェイスあり、

 息をつく間もなく、手に汗握るとはこのことでしょう。

 ぐっと胸に迫る クライマックスもあります。

 斬新で緻密な構成が、見る者を引きつけた 映画でした。
 

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2008年2月24日 (日)

「KIDS」

 
 3ヶ月余りぶりの 映画の感想です。

 とある うらぶれた街で、タケオ (玉木宏) は 暴力に身を任せたり、

 すさんだ 生活をしています。

 彼がよく行く 喫茶店で働くシホ (栗山千明) は、

 何故かいつも 大きなマスクを。

 その街に ふらりとやって来た、か弱そうな少年マサト (小池徹平)。

 彼には 不思議な力がありました。

 人の傷を 自分に移動させ、相手の怪我を “治して” しまうことができるのです。

 タイトルの 「KIDS」 は、「傷」 にかけています。

 原作は 乙一の短編小説。

 タケオは 父親から児童虐待を受け、その父は 今は脳卒中を起こして 植物状態。

 マサトの母は マサトが幼いとき 父を刺し殺し、

 マサトはその母を刺した という過去があります。

 そしてシホは 高校で苛めに遭って、顔に酷い傷を 負っていたのでした。

 それぞれに 重い事情を抱え、心に傷を持っています。

 マサトは 服役中の母親に会うために、この町へ やって来たのでした。

 マサトは、怪我の絶えない 元気な子供たちの傷を “治し”たり、

 喧嘩で大怪我をしたタケオの傷を 自分に移動させたりします。

 そしてマサトには、自分に移動させた傷を、

 さらに別の人に 移動させられる力が あることが分かるのです。

 友情,親子の愛情,裏切り,恋愛,絶望と希望……

 純粋で切ないエピソードが展開し、胸を締めつけられました。

 不覚にも、上映中何度も ハンカチを使わなければならなかったことは、

 僕は ほとんどなかったのですが。

 マサトと母親の 関係など、真実が次第に 明かされていきます。

 母親の愛を失って 生きる希望をなくしたマサトは、

 偶然、大規模交通事故で 大量の怪我人が発生した 現場に出くわします。

 そのとき 彼が取った行動は……。

 マサトの下へ 走るタケオ。

 ラストでは、それぞれが心の傷を癒し、自分の心に 向き合っていきます。

 演出に難ありの 所はありましたが、

 人の傷を移動させるという 秀でた発想から、佳作のドラマが生まれました。
 

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2007年11月16日 (金)

「大統領暗殺」

 
 アメリカのブッシュ大統領が 暗殺されたら? という モキュメンタリー〔*注〕。

〔*注: 架空の事実や人物に 基づいて作られる、虚構のドキュメンタリー。〕

 チェイニー副大統領など 実在の人物も、実名で 数多く登場します。

 現職大統領が殺されるという ショッキングなストーリーのため、

 世界中で賛否両論、アメリカでは 大幅に限定上映となった 超問題作です。

 花に飾られた ブッシュの遺影も 映されるのですから、

 現役の総理大臣が 死ぬ映画など、日本ではとても 考えられないでしょう。

 映画が作られたのは 2006年ですが、

 舞台は 2007年10月17日の 近未来に設定されています。

 シカゴで 演説を終えたブッシュ大統領が 銃弾に襲われます。

 架空のFBIや 犯人の妻に対する インタビュー,

 フィクションの映像,実際のニュース映像などを 交えながら、

 いかにも 事件が事実であるかのように 見せていくのです。

 観客は 何が事実で 何が虚構の映像か 区別がつかず、錯覚しそうになるうち、

 映画は 現実のブッシュの イラク政策などへの批判となっています。

 アメリカに同調した日本も 人ごとではありません。

 イスラムに対する偏見も あらわにされます。

 この映画は、9・11以後の世界に対する 挑発的な警告でもあります。

 下賤な趣味 という論評もありますが、

 ガブリエル・レイジ監督の 緻密な取材と、徹底的に リアリティに拘った

 演出と構成に裏付けられ、上質な作品に 仕上がっているでしょう。
 

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2007年11月14日 (水)

「ある愛の風景」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51200007.html からの続き)

 ある晩、ミカエルは 酒に酔って大暴れし、

 ついには警察と 銃を突きつけ合うことに。

 数奇な出来事を くぐり抜けてきたために、

 不幸にも 背負ってしまった苦悩に 胸が痛みました。

 何故 人間は苦しみ、傷つけ合わなければならないのか? 

 この映画は、「アフター・ウェディング」 とは違って、

 問題の解決を 示していません。

 しかし、事件について ミカエルが始めて口を開く ラストシーン。

 恐らく、ミカエルが少しずつ 心を開いていき、

 サラも それを受け止めていくだろうと 想像させます。

 苦悩を 分かち合うことによって、初めて問題は 解きほぐれていくでしょう。

 そこに 希望が見いだされます。

 リアルに、繊細に、丹念な エピソードを重ねていき、

 この作品でも 物言うクローズアップを 多用しています。

 大向こうを唸らせるような演出は 思い切りカットして、

 人間ドラマを 容赦なく描き出す スサンネ監督の手腕。

 重く、深く、胸に迫り来る 映画です。
 

 本作は ハリウッドでリメイクが 進んでいるそうですが、

 スサンネ監督の手を離れると、ただのメロドラマに なってしまいそうな……。

 そして スサンネ監督自身も、ハリウッドへの進出が 決まっています。

 中国の巨匠チェン・カイコー監督の ハリウッド作品のように、

 大がかりな2時間ドラマに ならないことを願っています。
 

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2007年11月13日 (火)

「ある愛の風景」 (1)

 
 先日書いた 「アフター・ウェディング」 と同じ、
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51118885.html

 デンマークの スサンネ・ビア監督作品です。

 「アフター・ウェディング」 のほうが最新作で、アカデミー賞ノミネート、

 「ある愛の風景」は 2004年の作品ですが、

 日本では 2本が同時公開されています。

 優秀な兵士である 兄・ミカエルと、その妻・サラ、

 そして 刑務所帰りの弟・ヤニックの 人間模様です。

 ミカエルは アフガニスタンに出兵し、家族に 戦死が伝えられました。

 哀しみの中の サラと二人の娘、ヤニックはその支えとなり、

 サラと娘たちも すっかりヤニックを 頼りにするようになります。

 ある日、唇を合わせる サラとヤニック。

「どうかしてたわ」 「忘れよう」

 しかし 実はその間、ミカエルは 敵兵に捕らわれの身となり、

 砂漠の中で 拘束されていたのでした。

 ミカエルは、何としても生還して 再び家族と会うため、

 必死で希望を 持ち続けていました。

 そんな中で、ミカエルは生き抜くために、

 人間として最も酷烈な 罪を犯してしまうのです。

 しかし、そうしなければ 自分が殺される極限状況でした。

 凄まじい葛藤のシーンに、息が詰まります。

 殺伐とした砂漠の中での 幽閉生活と、罪業への呵責によって、

 ミカエルの精神は蝕まれ、内心はずたずたにされます。

 そこへ援軍が来て ミカエルは救出され、ついに 帰還することができました。

 しかし、事件のことは 決して誰にも言えません。

 喜んで迎えられる ミカエルでしたが、心はすさんでおり、

 サラとヤニックが ベッドを共にしたのではないかと 疑心暗鬼に駆られます。

 優しくて エリートだった人格も 変貌してしまいました。

 暴言を吐いて 娘たちにも恐れられ、家庭は ぎすぎすした空気に包まれます。

(続く)
 

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2007年11月 8日 (木)

「アフター・ウェディング」

 
 “デンマークが生んだ 恐るべき才能” と言われる

 女性監督、スサンネ・ビアの作品です。

 インドで孤児の援助活動をしている デンマーク人ヤコブに、

 母国の実業家ヨルゲンから 巨額の寄付の申し出があります。

 条件は、帰国して直接会うこと。

 孤児院は破産寸前で、子供たちの行き場はなく、

 申し出を受ける以外 考えられません。

 ヤコブは ヨルゲンの娘アナの 結婚式に誘われ、

 式場で かつての恋人ヘレネに 遭遇します。

 彼女は 今はヨルゲンの妻でした。

 アナは 式の場でスピーチをし、ヨルゲンが実父ではないことを 告げます。

 ヘレネの以前の恋人の子だけれど、愛し育ててくれた ヨルゲンに感謝するのでした。

 困惑するヤコブに、ヨルゲンはさらに 寄付の条件を突きつけます。

 ヨルゲンの真意は 何なのか? 
 次第に 事実が明らかになっていきます。

 突然降りかかる巡り合わせに どう相対していくのか、葛藤する男と女、親と子。

 そして生と死。

 ドラマチックなエピソードが 精緻な演出により、

 集中的な映像と 大胆な省略で描かれます。

 極端なクローズアップが、インパクトをもって 心の内面を表現していました。

(僕も以前 マンガを描いていたとき、意志的なクローズアップを 用いていました。)

 人間の心理を 醜さも含め、リアルに語りかける映画でした。
 

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2007年11月 7日 (水)

「クワイエットルームへ ようこそ」

 
 「クワイエットルーム」 とは、精神科閉鎖病棟の中の 保護室のこと。

 入院患者の間で そう呼ばれています。

 マルチな才能を発揮している、松尾スズキの 原作・監督作品です。

 有楽町にオープンした 「イトシア」 の、

 「シネカノン有楽町2丁目」 で観てきました。

 28才のライター・佐倉明日香 (内田有紀) は、

 ふと気が付くと、クワイエットルームのベッドに 縛りつけられていました。

 何があったのか、全然 記憶がありません。

 大量服薬 (オーバードーズ) で自殺しようとした と聞かされますが、

 明日香は 死のうなどとはしていない と訴えます。

 自分は こんな所にいる必要はないと。

 病棟には、摂食障害の患者ら、一癖も二癖もある キャラクターがひしめいています。

 食べたくても食べられない ミキ (蒼井優),

 元AV女優で 過食症の西野 (大竹しのぶ),

 鉄仮面のようなナース (りょう) など。

 明日香は 少しずつ記憶が蘇ってきて、

 自分に起こった ヘヴィーな出来事を 理解していきます。

 深刻なテーマですが、松尾スズキの手にかかると、

 観客の目を引きつける、飽きさせない 映像と演出で楽しめます。

 小ネタも満載。

 そして最後は、ぐっと胸に来る 展開で魅せてくれます。

 かなりバッチイ役を、開き直って(?) 演じきった 内田有紀も立派でした。

 大竹しのぶは どんな役でもできてしまうのは 驚きませんが、

 目を引いたのは 新境地の蒼井優。

 拒食症の患者役のため、大分減量して 体を細くし、

 目のつり上がった 不思議な少女を怪演しています。

 また彼女の魅力が ひとつ増えました。
 

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2007年11月 6日 (火)

「この道は母へとつづく」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51068187.html からの続き)

 「母を訪ねて三千里」 などのように、母親探しの 定番の物語ですが、

 この作品には ロシア社会の様々な問題が 描き込まれています。

 貧困,児童虐待,少女売春,人身売買まがいの 養子仲介業者の横行。

 そんな中、少年たちは 彼らなりのルールに則って、したたかに生きています。

 母親に会いに行く道中 ワーニャは、養子仲介業者に追われたり、強奪に合ったり、

 また、人々の 優しい善意に触れたり、救われたりします。

 すさんだ社会でも、人々の心は温かい。

 映画は ワーニャの旅路を丹念に、リアルに追っていきます。

 過度な演出はせず、ワーニャの健気な姿が 感動を誘います。

 クライマックス、業者の用心棒に 追い詰められたワーニャは、

 恐ろしいばかりの 勇気を見せつけます。

 観ていて 身も凍る思いがしました。

 さすがに用心棒も 心を動かされます。

 それまで 眉間に皺を寄せながら、必死に苦難に立ち向かってきた ワーニャでしたが、

 母親に出会ったとき 初めて、戸惑ったような、はにかんだような 笑顔を見せます。

 想像力をかき立てる、秀逸なラストシーンには、目が潤みました。

 この映画は、新聞に乗っていた 実話を元にしている、と知って驚きました。

 2005年ベルリン国際映画祭で、少年映画部門グランプリを獲得し、

 その後 42の国々で 32の賞に輝くという、快挙を遂げた作品です。
 

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2007年11月 5日 (月)

「この道は母へとつづく」 (1)

 
 アンドレイ・クラフチューク監督の ロシア映画です。

 孤児院で育った 6才の少年ワーニャ。

 幸運にも、裕福なイタリア人夫妻の 養子になることが決まります。

 しかしワーニャは、もし 養子に行ったあと、

 本当の母親が迎えに来たら 一生会えない、という疑念に駆られます。

「一度でいいから、ほんとうのママに 会いたい」

 顔も知らない母親への、果てない想いを 募らせるのです。

 ここからの ワーニャの行動がすごい。

 各孤児に関する ファイルが資料室にある ということを知ると、

 そのファイルに 母親のことが書かれていないか と考えます。

 でも ワーニャはまだ6才で、字が読めません。

 ワーニャは ただ資料を読むためだけに、

 年上の少女に お金を払ってでも、字を習い始めるのです。

 そのために お金を盗んで、袋叩きにあっても めげません。

 そして 苦労の末、字を覚え、資料室のカギを盗んで、忍び込みます。

 そこを見つかってしまいますが、素早く一枚の資料を ポケットに仕舞いこみます。

 その紙には、ワーニャが 前に預けられていた孤児院の 住所が書いてありました。

 そこへ行けば 何かが分かるかもしれない。

 たったそれだけを頼りに、ワーニャは 孤児院を脱走し、

 前の孤児院を 探しに行くのです。

 ワーニャは一人で 列車に乗り込み、バスを乗り継いで行きます。

 僕が6才の時に、到底そんなことは できませんでした。

 ひたすら母親を慕う ワーニャの強い想いが、彼を突き動かすのでした。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51084263.html

 

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2007年10月28日 (日)

「ヘアスプレー」

 
 昔は タモリ同じように、ミュージカルは やや抵抗がありましたが、

「シカゴ」 を観て その魅力を思い知らされました。

 「ヘアスプレー」 も 話題のミュージカル映画です。

 60年代のアメリカで、人気のTV番組に 出演することを夢見る、

16才のトレーシー。

 抜群のダンスと歌、とびきり可愛くて 天真爛漫、

そして、超ポッチャリ系の 彼女です。

 そんな主役を射止めた ニッキー・ブロンスキーは、

1000人のオーディションの 中から選ばれた シンデレラガール。

 もうひとつの見所は、やはり 超ビッグサイズの トレーシーの母親です。

 演ずるのは何と、特殊メイクをほどこした、あの ジョン・トラボルタなのです。

(小倉智昭は 予備知識なしで映画を観て、こんなに太って 踊りがうまいおばさんを、

一体どこで 見つけてきたのだろうと 感心していたら、

エンディングのキャストを見て ぶっとんだそうです。)

 トレーシーは幸運にも TV番組出演を果たします。

 ところが、番組では 人種差別規定のため、

黒人が踊るコーナーが 廃止されてしまいます。

 人種差別は デブ差別にも通じるのです。

 トレーシーは白人ですが、番組に抗議するため、

自分の不利益も省みず デモに参加します。

 最後は もちろんハッピーエンドです。

 トレーシーの笑顔は とってもキュートで、ダンスもチャーミング。

 とにかく 楽しめる映画です。
 

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2007年10月27日 (土)

「北極のナヌー」

 
 北極を舞台に、シロクマ・ナヌーの誕生,成長を描いた ドキュメンタリーです。

 構想から10年の 歳月を費やして、この映画を制作したのは、

海洋研究家の アダム・ラベッチと、

北極のドキュメント映像を 数多く手がけている サラ・ロバートソン。

 日本版のナレーションは 稲垣吾朗が務めています。

 ナヌーを撮影しながら ストーリーを構成し、

ストーリーに必要な 映像を求めて 動物を追い、

思いがけなく得られた 映像を元に 新たなストーリーが紡がれていく。

 自然の光景は 神秘的で美しく、動物たちは 可愛くもパワフルです。

 折しも、世界的に 地球温暖化が叫ばれ、北極の氷が解けていく 現実を前にして、

それが作品の メインテーマになっていきました。

 氷が減ると、氷の巣穴に入る アザラシがいなくなり、

シロクマの食料が なくなってしまうのです。

 動物たちは 氷を求めて彷徨し、何百キロも泳いで 海を渡り、

彼らの生存環境は 変動を余儀なくされます。

 ナヌーたちは 死活に関わる 窮地に追い込まれますが、

それでも 必死で生きていきます。

 しかしながら、苦境に立ち向かっているのは、動物だけではありません。

 氷点下50度に達する 極寒の中で、合計800時間に及ぶ フィルムを回し、

予測不能の 動物たちの生態を 捉え続けた作業は、

想像を絶する 困難の連続だったでしょう。

 宿泊所も電気もなく、食料や水も自給自足、ブリザードに見舞われ、

深夜シロクマに テントを襲われたこともあるといいます。

 水中撮影では、アザラシの息継ぎ用の穴から 海中に入り、

氷点下の海水の中で 40分も作業をますが、

穴を見失ったら 生きて戻ることはできません。

 まさしく命懸けの 仕事だったと思います。

 世界で初めて、水中で セイウチの親子の愛情を映したり、

シロクマはセイウチを襲わない という定説を覆す 映像を収めたりもしました。

 不眠不休のぶっ通しで 観たとしても、1ヶ月以上かかる計算の 膨大なフィルムを、

84分の作品にまとめた 編集作業も気が遠くなります。

 スタッフの 艱難辛苦の創作に、心から敬意を表する次第です。
 

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2007年10月26日 (金)

「僕がいない場所」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50878797.html からの続き)

 廃船の側に建つ 裕福な家には、

美しくて利発な姉に 劣等感を持つ、味噌っ歯の 少女がいました。

 少女は、自分は生きててもしょうがない,将来なるのは “売れ残り” だと言って、

寂しさを 酒で紛らわせています。

 共に 愛されていない孤独を 抱いているクンデルは、

少女と次第に 心を通わせていきます。

 クンデル役の少年は 監督が国中から探し出した、演技経験のない 素人ですが、

やけに大人びた 表情を見せ、観る者の心を 引きつけます。

 少女役の子も、監督が養護施設で 見つけたのだそうです。

 大人のような子供に対して、周囲にいるのは 子供のような大人でした。

 男たちの間で 乱れた生活をしている母親を、クンデルは嫌いながらも、

もう一度 母に会いに行きます。

 しかし母親は 男のことばかり考え、

クンデルが 母の口から聞いた言葉は、 「もう来ないで」。

 自力で生き抜いている クンデルですが、どんなに 強そうに見えても、

子供にとって 一番必要なのは 親の愛情です。

 親の愛がなくて 生きていける子供が どこにいるでしょう? 

 拙著 「境界に生きた心子」にも 書いた言葉ですが、

強がっている子供はいても、強い子供はいないのです。

 クンデルは 生きる力を失って、くじけかけてしまいます。

 クンデルを労る少女に、彼は 「消えたい」 と言う

悲痛な心の叫びを 訴えるのです。

 少女だけは、クンデルに 愛情を与えました。

 最後に クンデルが得たものは、他の誰でもない、

まさに実存的な 自分自身の居場所だったのでしょう。

 これは 近代化を経た ポーランドだけの問題ではなく、

普遍的な 人間のテーマです。

 

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「僕がいない場所」 (1)

 
 ポーランドの女性監督、ドロタ・ケンジェルザヴスカの 作品です。

 社会主義から民主主義に 移ったポーランドで 近年、

子供に対する虐待が 社会問題になっているそうです。

 男に夢中になる 母親から、愛情を得られず 放置された少年・クンデル。

 実話を元にした 話で、柳楽優弥に カンヌ最年少男優賞を得させた

「誰も知らない」 の、いわばポーランド版 と言えます。

 しかし 本作のほうが 母親の愛情はより薄く、

クンデルの気骨は よりしたたかのように見えます。

 養護施設に入っている クンデルは、そこに 自分の居場所がなく、

脱出して 母親の元へ走ります。

 すると、母親は男と ベッドを共にしていました。

 母親は 男に依存し、誰かに愛されていなければ 寂しくていられないと言います。

 しかし、それより遥かに 愛情を求めているのは、他ならぬ 我が子のほうなのです。

 許してくれと 泣きつく母親を クンデルは振り切って、

一人で生きていく 決心をします。

 川べりの廃船に 住み着き、空き缶や鉄くずを 拾って売り、現金を手に入れます。

 大人の施しは受けず、時には 商店からパンと缶詰を盗み、口にほうばる。

 まさしく 人間が 「生きる」 ということの 原点を、

見せつけられるような 気がしました。

 天然の光と陰を 映し出した映像に、「ピアノ・レッスン」 の

マイケル・ナイマン奏でる、切々とした ピアノの旋律がかぶさります。

 自然に、淡々と、生命の営み というものを感じさせます。

(続く)
 

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2007年10月24日 (水)

「オリオン座からの招待状」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50843179.html からの続き)

 そして二人は 赤貧に耐えながら、懸命に 映画の灯を ともし続けていくのです。

 蚊帳の中で 蛍を放すシーンも、趣がありました。

 一方、オリオン座に通い続ける 二人の子供、祐次と 良枝。

 二人とも 家庭に愛情がありませんが、

映写室の小窓から 映画を観て 心を踊らせます。

 トヨと留吉も 二人を可愛がり、疑似家族のような 幸せを築いていきます。

 そして 話は現代に。

 半世紀以上にわたって 写真を映し続けてきた オリオン座ですが、

留吉とトヨも 高齢と病に勝てず、閉館の時を 迎えることになります。

 謝恩最終興行の 招待状が、良枝と祐次の下に 届きます。

(ファーストシーンは ここから始まります。)

 良枝と祐次は結婚し、今は 離婚の局面に 向かっています。

 数十年ぶりに 帰郷した二人は、留吉と再会して、

最後の上映を鑑賞し、少し心に変化が……。

 トヨは 死期が近づいています。

 この間、トヨと留吉の間に、夫婦関係があったのか なかったのか、

映画は どちらにも取れる 描き方をしています。

 敢えて 隠しているようにも。

 「幸せの黄色いハンカチ」 で、倍賞千恵子が高倉健に 部屋に入ることを許した

名場面のように、トヨと留吉も 結婚していてもいい と思うのですが、

 それを観客の思いに 委ねることも、また奥行きがあって いいのかもしれません。

 それにしても、「ニューシネマ・パラダイス」 をはじめとして、

映画館の映画は、いとも 人の郷愁を誘います。
 

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2007年10月23日 (火)

「オリオン座からの招待状」 (1)

 
 浅田次郎・原作、三枝健起・監督作品。

 名女優になりつつある 宮沢りえと、

地味ながら 大きな存在感を感じさせる 加瀬亮の主演です。

 昭和三十年代、京都の一角。

 松蔵 (宇崎竜童) と 妻のトヨ (宮沢) が、

映画館 オリオン座を営んでいます。

 そこへ流れ着いた、身寄りのない 留吉 (加瀬)。

 写真 (映画) が好きなので 雇ってくれと、頼み込みます。

 最初は すぐに出て行くと 思われていましたが、

やがて 夫婦の信頼を 得ていきました。

 けれども 松蔵が病に倒れ、オリオン座を 閉める瀬戸際に……。

 公園のベンチに座って、語り合う トヨと留吉。

 留吉は、自分が先代の遺志を受け継ぐ と訴えます。

 日本映画では、わざとらしすぎる 溜めの 「間」 を作って、

観ていてイライラしたり、退屈したりすることが ままあるのですが、

この映画では 長い間も それを感じさせません。

 無言の時間でも、二人の心の間に 深い感情が流れていれば、

心ときめく 高揚感が伝わってきます。

 ベンチに座る二人の 距離と角度は、二人の心の 間と向きを、

絶妙に現しているように 思えました。

 オリオン座は 二人の手で再開されます。

 しかし、テレビの登場や 映画産業の斜陽。

 また、口さがない住民に、先代の女房を 寝取った雇い人,不貞な女将

という陰口を叩かれ、映画館には すっかり閑古鳥が 鳴くようになってしまいます。

 自分のために オリオン座がダメになった と悩む留吉。

 客のいない観客席に、少し離れて座る トヨと留吉を、

カメラは真正面から じっと映し続けます。

 何の てらった演出もありませんが、緊張感が伝わってくるシーンです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50857808.html

 

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2007年10月21日 (日)

「ミルコのひかり」

 
 イタリア映画界 屈指のサウンド・デザイナー、

ミルコ・メンカッチの 子供時代の実話です。

 ミルコは10才の時、不慮の事故で 失明してしまいます。

 1970年当時、イタリアでは 視力障害児は全寮制の盲学校に

入らねばならない法律でした。

 目が見えなくなったことを 受け入れられないミルコは、

心を閉ざし、他の生徒と いがみ合ったりします。

 そんな中、古びたテープレコーダーを見つけ、

聞こえてくる音の 魅力に目覚めました。

 ミルコは 友達になったフェリーチェと、色々な音を集めて 録音します。

 そして、寮の管理人の娘・フランチェスカに 聞かせるために、

テープを切り貼りして編集し、物語を作ります。

 シャワーの音は雨の音に、手のひらを指で叩くと 滴が落ちる音に、

唇を鳴らして 蜂の羽音に……。

 それらを繋げると、雨が上がって、蜂が花に舞う、

みずみずしいストーリーが でき上がったのです。

 鮮やかな映像の イメージが立ち上がり、ぞくぞくするほどの 感動を覚えました。

 ミルコは 冒険心に富んだ少年で、寮の規則に縛られず、

フランチェスカと 自転車に乗って 町の映画館へ行って、映画の魅力とも出会います。

 周りの少年たちも 次第に興味を持ち、仲間に加わっていきました。

 ミルコにつられて、狭い盲学校に 閉じこもっていた少年たちは、

門限も構わず あちこちを飛び回って 音を集めます。

 しかし、盲学校の校長は 自分も盲目で、

障害者が社会で生きていくため手に 職を付けることを 目標としています。

 障害者が希望を持つと 挫折するだけであり、

子供たちが傷つかないように 守っていくのが、自分の役割だと 信じています。

 校長はミルコから テープレコーダーを取り上げ、

決められたことだけ していくように言いつけます。

 でも、担任の先生は ミルコの才能を大切にし、

新しいテープレコーダーを 買い与えました。

 ミルコたちは卒業製作のため、フランチェスカが作った物語を、

音で表現して 紡いでいきます。

 空のドラム缶を吹くと 竜の鳴き声に、工場の機械の音が 恐ろしいお城の轟音に、

ミルコは様々な音を 創造していくのです。

 目をつぶっていても、生き生きとした世界が 繰り広げられていきました。

 この映画は、音の美しさを 教えてくれると共に、

枠に捕らわれず 可能性にチャレンジしていく、自由な精神の発揚を 描いています。
 

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2007年10月20日 (土)

「天国からのラブレター」

 
 光市母子殺害事件の 本村さんと弥生さんの、同名著書の映画化です。

 本村さんと弥生さんの 出会いから、事件が起こった時までの 物語を描いています。

 渋谷の小さな映画館、というより “映写室” とでもいうような会場

「UPLINK X」 での上映です。

 僕は 東京の映画館は ほとんど行ったことがあると思うのですが、

ここは その存在も知りませんでした。

 2004年に、 “日本一小さな映画館” として オープンしたそうです。

 座席は 床に固定されたものではなく、椅子やソファーが 50ほど置いてあります。

(同じような “映画館” が渋谷に もうひとつありますが、

「UPLINK X」 は渋谷駅から さらに離れています。)

 テレビで あれだけ話題になっている 本村さんの映画であり、

映画界の風雲児・奥山和由による 企画なのに、

こんな小さな場所で、観客も5人ほどでした。

 話題性や、本村さんに対する 関心だけでも、

もっと客が集まっても 良さそうなもんだと思うのですが……。

 確かに 映画の出来自体は、ただ平凡なカップルの 普通の話で、

演出も月並みなものですが、

幸福な家庭が 残酷にも切り裂かれたことの 重みが感じ取れます。

 犯行の罪深さを 知る糧となり、

その罪業をあがなうには どういう刑が必要なのかを考えさせられます。

 公正な立場を取るために、今度は 犯人側の背景を描いた 作品を観たい

と思うのですが、現実には無理ですね……。

 本村さんと弥生さんは 本当に平々凡々とした、幸せなカップルでした。

 事件をきっかけに それが激変し、限りない苦悩が 本村さんに襲いかかり、

本村さんは それに立ち向かって 闘い続けています。

 その人生のほうが はるかに劇的で、感動の作品に なるでしょうが、

本村さんはそれを望まず、命の大切さを 描くことを望んだのです。

 本村さんのその想いは、充分に伝わる映画でした。

 この作品に対しては、僕は出来不出来を 語る気はありません。

 ただ、本村さんの心に 寄り添いたいと思います。
 

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2007年10月19日 (金)

「自虐の詩」

 
 またまた 堤幸彦監督の新作です。

 「嫌われ松子の一生」 「7月24日通りのクリスマス」 と、

不幸を一身に背負った 役が身に付いてきた、中谷美紀 (幸江) が主役です。

 幸枝は 母親の顔を知らず、父親は 銀行強盗で服役中。

 やくざ者のイサオ (阿部寛) と 同棲しています。

 イサオは 些細なことでキレて、ちゃぶ台を ひっくり返すのが “特技”。

 仕事もせず、一生懸命働いている幸江から 金を巻き上げては、

何度も 警察のお世話になる始末です。

 そんな幸江の 心の支えになっているのは、中学の同級生・熊本さんでしょう。

 貧乏同士で クラスの仲間外れ。

 一度は崩れかけた友情も、殴り合いの末に 契りを結びます。

 「幸せになりてえ」 と 将来を誓い合ったのでした。

 それが何で、こんな ちゃぶ台男に尽くす生活を しているのか? 

 幸江が妊娠しても 「おめでとう」 の一言さえなく、

逆ギレして 「出て行け」 と言い放つ。

 挙げ句の果て 幸江は、歩道橋から転落してしまいます。

 でも……こんな男でも、昔は 純粋に愛してくれていた。

 体を張って 幸江を守ってくれた。

 その愛が 蘇って……。

 笑いあり涙ありの 怒濤のエンターテイメントを、

堤幸彦が また見せてくれました。
 

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2007年10月18日 (木)

「包帯クラブ」

 
 「永遠の仔」の 天童荒太の原作を元に、

堤幸彦監督が 再び話題作を送り出しました。

 主演は、カンヌ 最年少男優賞の 柳楽優弥 (ディノ) と、

石原さとみ (ワラ)。

 女子高生ワラは、奇妙な少年 ディノと出会います。

 ワラが傷ついた 想い出のある場所に、

ディノは 包帯を巻いて 傷を手当てしてやろうとします。

 それが何故か ワラの心を癒すような気がしました。

 ワラの友達・タンシオ (貫地谷しほり) たちは、

インターネットを利用して それを皆に広めようと、

「包帯クラブ」 というサイトを作ります。

 傷ついた体験を ネットで受け付け、その出来事があった場所に 包帯を巻きに行く。

 その手当てをした風景を デジカメに撮り、投稿者のアドレスに送る、という活動です。

「巻きます。効きます。人によります。」

 という キャッチコピーは傑作です。

 クラブのメンバー、ディノ,ワラ,タンシオ,ギモ,リスキたちは、

それぞれ自分の悩みや 傷を抱えています。

 活動を進めるなかで 彼らは、人の痛みに 共感しようとする努力をし、

どうしたら傷を癒せるか 一生懸命考えます。

 そうしていくうちに、自らの傷にも 向かい合わざるを得なくなっていきます。

 空中分解の危機にも直面し、やがて 壊れた友情を 回復していきました。

 ディノは、表向きは 奇行を重ねる 風変わりな少年ですが、

胸の奥に 癒しがたいトラウマを秘めています。

 そして最後は その無残な傷に立ち向かい、乗り越えていくのでした。
 

 トリッキーなコメディから、人生を真正面から 見つめる作品まで、

才能を遺憾なく発揮している 堤監督ですが、また新たな世界を 見せてくれました。

 思春期の そこはかとない心情も 見事に描いています。

 奇抜なカメラアングルは ありませんでしたが、

堤監督らしいカメラワークは 随所に見られました。

 柳楽優弥は、「誰も知らない」 では ドキュメントタッチの作品で、

その強い視線だけが 印象的でした。

 「星になった少年」 では 演出のつたなさで、

見るべきものが 感じられませんでした。

 しかし今回、堤監督の手によって 一皮むけ、

ダイナミックな魅力を 披露したのではないかと思います。
 

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2007年10月13日 (土)

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」

 
 時代劇と西部劇を 合体させたような、ユニークな映画でした。

 日本人の、日本人による、日本人のための (?) 西部劇。

 イタリアの西部劇が マカロニ・ウエスタンなのに対して、

こちらは 「スキヤキ・ウエスタン」。

 「着信アリ」 「妖怪大戦争」 などの 三池崇史監督はじめ、

出演者は皆 日本人 (クエンティン・タランティーノを除く)、

そして セリフは全編英語です。

(ただ 3つほどある日本語のセリフが、絶妙の笑いを誘います。)

 舞台は 壇の浦の闘いから 数百年後、どこの国か分からない 山奥の寒村で、

源氏ギャングと 平家ギャングが 埋蔵金を巡って対立。

 そこに現れた 凄腕ガンマン (伊藤英明) というシチュエーションで、

物語は始まります。

 家屋は日米の折衷、服装は西部劇を基本に 独特なデザインを施しています。

 武器はガンですが、クールな源義経 (伊勢谷友介) は

日本刀の使い手でもあります。

 映像は 特殊な処理をして、毒々しささえ感じるものです。

 平清盛 (佐藤浩市) は、子分を盾にして 自分は隠れる 卑怯な奴ですが、

平家物語やシェークスピアを愛読する 文学男でもある。

 平家に付きながら 源氏に行きたがっている 保安官 (香川照之) は、

自分の中の 相反する人格の 言い争いに煩われ、

「ロード・オブ・ザ・リング」 の ゴラムを思わせます。

 弁慶 (石橋貴明) は 考えるより先に、ガトリング銃や ダイナマイトをぶっ放す。

 荒くれ男たちの中で、紅二点の 木村佳乃と桃井かおりが

取って置きの役所を 負っています。

 そんな奇抜な 世界観とキャラクターで、ドラマは展開していくのです。

 親を殺された 子供とガンマンの 過去の傷も絡め、

クライマックスは 三つ巴の銃撃戦と、ガンマンと義経の一騎討ち。

 シナリオは、手塚治虫原作の映画 「どろろ」 の NAKA雅MURAと、

三池崇史監督の 共同脚本で、今までにない 斬新な作品を見せてくれました。
 

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2007年9月13日 (木)

「フリーダム・ライターズ」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50088751.html からの続き)

 エリンは生徒たちに、

 「アンネの日記」 などを 教材として読ませようとします。

 しかし学校側は、彼らに それを読む読解力はなく、

 本を捨てられるだけなので 予算は出せないと言います。

(因みに 僕は高校の英語の授業で、「アンネの日記」を テキストとして読んでいて、

 適切な教材だと 思ってました。)

 エリンは 資金調達のために、勤務後 ブラジャーの販売員をしたり、

 ホテルの接客係のバイトをして、自腹で 生徒に本を与えます。

 それから 一人ずつに日記帳を渡し、何でもいいから 「書く」 ことを求めます。

 すると 生徒たちは、胸の中に閉じ込めていた 様々な辛い体験を、

 吐き出すように 書きはじめたのです。

 また、エリンは生徒たちを ホロコースト博物館へ連れて行き、

 その凄惨な 歴史を学ばせます。

(もちろん費用は エリンの自腹。

 しかし、バイトのために エリンの夫は置き去りにされ、

 夫婦関係は崩れる 葛藤に苛まれます。)

 生徒たちは、ホロコーストで 自分たちよりも凄惨な 虐殺を受難して

 死んでいったユダヤ人や、幼い子供たちの姿を 目の当たりにして、変わってきます。

 彼らは 持っていた銃を捨て、自分を見捨てた 母親に自ら会いに行き、

 そして 人種対立を超えて 真実の証言をし……。

 彼らは次第に 読解力や書く力を 身に付けていき、

 自分を見つめ、初めて 将来を展望していきます。

 教室は 彼らの唯一のホームに なっていくのです。

 生徒たちが書いた日記は 本として出版され、

 今も ベストセラーになっているといいます。

 「書く」 ことによって、心を開き、信頼し合い、

 どん底にあっても 「変わる勇気」 を、彼らは 手に入れていったのです。

 そんな希望を 与えられた作品でした。

 日本の教育現場でも、こういうことを 実現していくことはできないでしょうか? 
 

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2007年9月12日 (水)

「フリーダム・ライターズ」 (1)

 
 アメリカのハイスクールでの 実話を元にした映画です。

 舞台は ロス暴動直後の ロサンゼルス郊外。

 貧困層の子供たちばかりが 集められた、最低レベルのクラスに、

 新米の国語教師・エリン (ヒラリー・スワンク) が赴任します。

 生徒たちは すさんだ環境の中で、

 黒人,ヒスパニック,東洋人,白人、人種ごとに別れて 対立しています。

 子供のときから 暴力とドラッグの中で育ち、学習意欲もなく、授業にもなりません。

 校長たちも このクラスのことは、手に負えないと諦めています。

 しかし 理想と情熱の塊の エリンは、

 体当たりで 生徒たちの中に 入り込んでいくのです。

 ある日、ゲームの形を借りて エリンは生徒たちに 質問していきます。

「銃を 突きつけられたことのある人」

「友達や親類に ギャングがいる人」

「友達や親類を ギャングに殺されたことがある人」

「2人 殺された人」

「3人 殺された人」………

 これらの質問に、クラスの ほとんどの生徒が イエスの答を示します。

 それほど 悲惨な境遇にいる 子供たちなのです。

 そして 生徒たち自身も、対立していた 人種の異なるクラスメートが、

 自分と同じ苦しみを 抱えているのだということを知ります。

 彼らの心に 変化の兆しが生まれます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50102537.html

 

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2007年9月11日 (火)

「TOKKO -特攻-」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50045697.html からの続き)

 日本軍の窮状は 惨たんたるもので、燃料タンクを作る 鉄もないため、

 竹を編んで 和紙を貼り、漆を塗って ガソリンの漏れを 防いでいたといいます。

 ガソリンには 松やにを混ぜていました。

 こんな貧窮した状態で、物資も武器も 大量に保有するアメリカに 勝てるわけがない。

 それでも彼らは、天皇や国のためではなく、

 自分の家族や 愛する人を守るため、敵艦に突っ込んで行ったのです。

 しかし、敵の空中放火をくぐり抜けて 敵艦まで辿り着くのは、10機に1機、

 しかも 敵艦の中心部に命中するのは 僅かだったといいます。

 命が 紙屑のように扱われ、終戦になっても 何の保証もなく、

 特攻隊員は 生き残った罪悪感に苛まれています。

 彼らは 元特攻隊であったことを、家族にさえ話さず生きてきました。

 何も誇れることでは なかったのです。

 モリモト監督は、観る人と同じ視線で 映画を作っていきました。

 そして邪悪な神風が、実は 戦争に翻弄された、

 自分たちと同じ 生身の人間であることを 知っていくのです。

 特攻隊員たちもまた、鬼畜米英という教育を 受けてきて、

 相手を人間だとは 思っていませんでした。

 戦争はそのように 人の心を歪めてしまいます。

 この作品もまた、アメリカ人の手によって作られ、

 世界の人に観られることに 意義があるでしょう。

 この映画は、生存者たちのインタビュー映像に、戦時中の日米の記録フィルム,

 時にはアニメも交え、観る者を 戦禍の中へと引き込んでいきます。

 BGMと共に、卓越した構成で 我々の精神に訴えかけてきます。

 世界が テロの脅威に向き合い、平和憲法の見直しが 語られる現代、

 戦争と平和の意味を 考える手がかりとなってくれる 作品でしょう。
 

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2007年9月10日 (月)

「TOKKO -特攻-」 (1)

 
 「ヒロシマ・ナガサキ」 に続いて観た、

 日系アメリカ人監督による ドキュメント戦争映画、

 大分 間が空いてしまいましたが、引き続いて感想を書きます。

 一般のアメリカ人が抱く 「神風」 のイメージは、

 9・11の犯人や 自爆テロと全く同じです。

 この映画の監督 リサ・モリモトも、最近まで そう思っていたといいます。

 ところが、亡くなった自分の叔父が、元特攻の訓練を受けていた

 ということを知って、信じられない思いにとらわれます。

 叔父は優しくてセンスがあり、およそ神風のイメージとは 極にある人だったのです。

 そして彼女は、日本に特攻隊の生き残りが いることを知り、

 彼らに取材する 旅に出ました。

 一方で、特攻隊に沈められた戦艦の 生存者である元米兵への インタビューを交え、

 神風の実態に迫ります。

 プロデューサーは、日本育ちのアメリカ人、リンダ・ホーグランドです。

 日系アメリカ人のモリモト監督との コンビで、初めてできた作品かもしれません。

 それまでの特攻隊の印象は、死を何とも思わぬ、

 狂信的な モンスターのようなものでした。

 ところが、実際に特攻隊の生き残りの人に 会ってみると、

 真面目で 涙もろい人だったり、気さくなおじさんだったり、

 英語の勉強をした 実業家だったりします。

 そして、誰しも 自ら死を望んでいたのではなく、上からの命令でやむを得ず、

 死の恐怖と闘いながら 飛び立って行ったのでした。

 死にたくない,生きたい、そういう気持ちを 胸にしまい込んでいたのです。

 また 飛行兵たちは、アメリカの電波も 傍受できるため、

 戦況が 大本営発表と異なることも 知っていました。

 この戦争は 絶対に負けると思っていました。

(続く)
 

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2007年8月30日 (木)

「ヒロシマ・ナガサキ」 (3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/49811206.html からの続き)

 火傷の後遺症を治すため アメリカに渡った、

 「原爆乙女」 のことも 紹介していました。

 20~30人の 原爆乙女たちは、その活動を率いる 日本の牧師と共に

 アメリカのTV番組に出演し、アメリカ人に寄付を募ります。

(原爆乙女たちは 顔は映されません。)

 その番組に出演するのは、何とエノラ=ゲイで 原爆を投下した飛行兵。

 彼は当時 何も知らずに命令に従い、原爆の炸裂を 目撃した瞬間、

 「とんでもないことをしてしまった」 と、懺悔の念に駆られたのです。

(アメリカで英雄に 祭り上げられた彼は、わざと窃盗を働いて 投獄された

 という話も 聞いたことがあります。)

 そして彼は、番組の中で 第一号の寄付者になります。

 アメリカ人に助けを求める 立場の牧師は、飛行兵と握手し、深く感謝するのでした。

 しかし それによって救われる 被爆者は、ほんのわずかな一握り。

 現在に至っても、保証を受けられる 被爆者の基準は 不明確なままです。

 これらを目の当たりにして 思うことは、誰しもただひとつ、

 「原爆は二度と 使用してはならない」 ということに尽るでしょう。

 戦争は人を狂わせます。

 「戦争は絶対にいけない」 というメッセージを、伝えていく 必要に駆られます。

 被爆者や戦争体験者が 残り少なくなっていく現在。

 映画冒頭で、渋谷でインタビューされる 若者たちは、

 8月6日,9日に何があったか、誰も答えられませんでした。

 僕は、自分の親が 戦争へ行っている 最後の世代なのですが、

 この時代であるからこそ、後世に語り継いでいかなければ と思うのでした。
 

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2007年8月29日 (水)

「ヒロシマ・ナガサキ」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/49788855.html からの続き)

 その他にも、多くの痛ましい被害者の姿が 次々と映し出されます。

 唇がなくなり 歯茎が露出している少年,眼球の取れた女性,

 手足がなくなってしまった女性,耳が溶けた男性の映像など、

 注視できないほどの 映像が続きます。

 ある女性は、顔全体が 真っ黒なススの固まりのようになってしまい、

 父親がそれを 皮膚ごとはぎ取ったといいます。

 また、母親の焼死体を見つけた少女が その遺体に触れると、

 燃えかすのように アッと言う間に 崩れ落ちてしまったとか……。

 爆心地にいて 一瞬で蒸発してしまった人のほうが、

 幸運だったのではないか と思ってしまうほど、凄惨を極めるものです。

 そして 次に襲ってくるのが 原爆症。

 当時は 誰も知らない、医者も見たこともない、放射能による病態です。

 髪が抜け、体中に斑点ができ、臓器不全を起こして、訳も分からず 死んでいきます。

 アメリカは 原爆症の研究を始めましたが、

 患者は 治療をされるのではなく、ただの 研究の対象物でした。

 被爆者は 伝染病にかかって感染する と思われ、周囲から疎外されたり、

 結婚や就職も できなかったり、同じ被害者の 日本人の間で 差別されるのです。

 被爆二世もまた 被害にさらされます。

 はたして 幾重の苦悩を 味合わなければならないのか……。

 戦争で 人を殺す武器に、残酷なものと そうでないものが あるはずもありませんが、

 原爆ほど甚大な 大量殺戮を犯し、

 被害が広範 かつ長期間に わたるものはないでしょう。

 元防衛相の 「しょうがない」 発言は、一体全体 どの口から出てきたのか? 

(続く)
 

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2007年8月28日 (火)

「ヒロシマ・ナガサキ」 (1)

 
 日系アメリカ人の監督が撮った ドキュメントの戦争映画を、続けて2本観ました。

 スティーヴン・オカザキ監督の 「ヒロシマ・ナガサキ」 と、

 リサ・モリモト監督の 「TOKKO -特攻- 」 です。

 今日は 「ヒロシマ・ナガサキ」 から。

 オカザキ監督は 25年間にわたって 被爆者に取材を重ね、

 原爆を投下した米兵への インタビューも入れて 映画を作り上げました。

 日本人は 痛いほど知っている 原爆の悲惨さですが、

 アメリカ人は 大半の人が知りません。

 原爆のおかげで 終戦が早まり、何百万のアメリカ兵,日本人が

 救われたと信じています。

 アメリカでは 戦後25年間、

 原爆に関する情報を 公開してはならないとしていたそうです。

 この 「ヒロシマ・ナガサキ」 は、広島への 原爆投下の時刻に合わせて、

 全米で TV放送されたそうです。

 多くの人が 無言で画面に見入り、深いショックを受けたといいます。

 僕は幼稚園の頃、広島の原爆ドームへ 行きました。

 ケロイドの写真を 初めて目にし、

 恐ろしい気持ちになったことを 今でも覚えています。

 それらの地獄絵図が 米人監督によって、

 アメリカ人たちに伝えられることが 大きな意味を持っています。

 原爆の被害を 知っている僕でも、改めて映画を見て、

 その無残さには 思わず目を覆うばかりでした。

 会場では すすり泣きの声も聞こえました。

 背中の皮膚が全てはがれて 真っ赤になったカラー映像は、

 強烈な衝撃を与えます。

 その激痛や、充分な治療もできないまま 長きにわたる苦痛は、

 想像を絶するものでしょう。

 この被害者は 何ヶ月もの間、腹這いになったまま 動けなかったため、

 胸は 激しい床ずれを起こしました。

 62年たった現在でも、肋骨がむき出しになり、腎臓が 外から見えるといいます。

(映像では 細かいところまでは 映しませんでしたが。)

 ケロイド状の背中には 今も薬をぬり続けねばならず、

 発汗できないため 相当な体調不良を 伴うのではないでしょうか。

(続く)
 

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2007年8月13日 (月)

「殯 (もがり) の森」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/49488889.html からの続き)

 この作品では、しげきが軽度の痴呆症 ということもあり、

 過剰なセリフは 一切ありません。

 説明も最小限 (というより最低限) に留められ、観る者の想像力に 委ねられます。

 森で二人が どしゃぶりの雨に襲われ、

 鉄砲水が出た渓流を しげきが渡っていってしまう シーンがあります。

 真千子は 「行かんといて!! 行かんといて~!!」 と泣き叫び、

 うずくまって 動けなくなってしまいます。

 その時 にわかに、

 『あ、真千子は こうやって子供を亡くしたのか?』 と気付かされます。

 映画冒頭の、真千子が元夫に 「なんで手を離したんや!?」 と

 なじるられる場面が 思い浮かぶのです。

 シーンは その一言だけで、何の説明も 回想もありません。

 しかし 真千子の恐慌の姿に、彼女の悲しみの激しさが 伝わってきました。

 そして しげきは真千子の叫びに応え、真千子の下へ 戻ってくるのです。

 迫真の絶叫に、強く心を打たれたシーンでした。

 また、夜に 発熱して震えるしげきを、真千子は 裸になって抱きしめ、

 肌と肌を合わせて さすり続けます。

 そんなできごとを 重ねていくうち、真千子としげきの間には、

 介護士と痴呆症の患者,若者と老人,女と男という立場も超えた、

 心と心の繋がりが 生まれていきます。

 そして 真子の墓に 辿り着いたとき、しげきは癒しに包まれ、

 真千子も 新たな生の希望を 感じていくのでした。
 

 河瀬監督は、 「どうしたら遺される者、逝ってしまう者の 間にある

 結び目を描く物語へ 昇華できるだろう」 と考えたそうです。

 この作品は、生と死の繋がりや、生きる者同士の繋がりを 得ていくことによって、

 魂の再生を描いた ドラマではないでしょうか。
 

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2007年8月12日 (日)

「殯 (もがり) の森」 (1)

 
 カンヌ映画祭 グランプリを受賞した、河瀬直美監督の作品です。

 僕は河瀬作品は、デヴュー作から観たいと思いながら、

 ずっとその機会が ありませんでしたが、やっと観ることができました。

 「殯 (もがり) 」とは、敬う人の死を悲しみ、偲ぶこと、

 または その場所だのこと。

 映画は 奈良の山の深い緑の中で、ドキュメントタッチで綴られます。

 今日日の、短いカットを スピーディに畳みかけるような 映像ではなく、

 登場人物や自然の姿を じっくりと映し取っていきます。

 田舎の民家を改築した グループホームに、新米介護士・真千子がやってきます。

 そこには、軽い痴呆症の しげきがいました。

 33年前に 妻の真子を亡くし、忘れられないでいます。

 真千子もまた、幼い我が子を亡くし、離婚した悲しみを抱えており、

 心をふさいでいます。

 真千子は初めは慣れずに、しげきに 突き飛ばされてしまったりしますが、

 先輩介護士・和歌子の 「こうしゃなあかんってこと、ここにはないから」

 という助言もあって、次第に気持ちが 通じていきます。

 そして 真千子としげきは、真子の墓参りに 行くことになります。

 ところが 途中で車が脱輪し、真千子が助けを呼びに行った間に、

 しげきは一人で 森の中へ入っていってしまいます。

 しげきの後を追う真千子。

 そこから、二人の森の中での 彷徨の物語が始まります。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/49505806.html

 

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2007年7月16日 (月)

「ハリー・ポッターと 不死鳥の騎士団」

 
 魔法界の 闇の帝王が復活し、ハリーは襲われて 謀られる。

 一方 魔法大臣は、ホグワーツの校長に あらぬ疑いをかけ、

 配下の次官を ホグワーツにスパイとして送り込んだ。

 話題のハリポタを 先行上映で観てきました。

 従来のシリーズより、CGの ダイナミックなアクションシーンは 少なかったものの、

 内面の攻防を 表すストーリーが 深められていたと思います。

 今回の闘いは クラス対抗のゲームなどより、現実の 魔法界の闇勢力。

 ハリーも成長し、我が身を張った闘いに 臨むようになったということでしょうか。

 ハリーと仲間たちが 力を合わせて魔力を磨き、大きな敵に 立ち向かっていきます。

 自分の感情を いかにコントロールするかという、

 精神の力を 身に付けることが、魔法の神髄であることが 描かれます。

 ハリーの心の中の、善と悪との せめぎ合いもあり、

 見た目の派手さだけではなく、火花を散らす葛藤に 汗を握ります。

 スーパーマンや スパイダーマンなどでもあったように、

 自分自身の 光と闇の対立は 定番でもありますが、通っていく道なのでしょう。

 ハリーのロマンスもあります。

 でも 何で相手は ハーマイオニーじゃないんだ? 

 ハリーの新しい理解者である “不思議ちゃん” も チャーミングでした。
 

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2007年7月15日 (日)

「西遊記」

 
 香取慎吾 (孫悟空) を主人公に、深津絵理 (三蔵法師),

 内村光良 (沙悟浄), 伊藤淳史 (猪八戒) のメンバーで送る、

 TVドラマシリーズの 劇場版です。

 僕は 香取慎吾の孫悟空は ミスキャストに思われて、TVは見ていません。

 まず、猿にしては 長身すぎる。

 そして、無駄に テンションばかり高めた 演技もいかがなものかと。

 でも 映画の評判がいいので 観てきた次第です。

 やはり 孫悟空に対しては 同じ印象でしたが、CGなどは良くできていました。

 悟空の きんとん雲と、銀角大王の 黒い雲との空中戦は、

 なかなかのものだったと思います。

 また、TVでメーキング番組を 見ていたので、

 アクションシーンの大変さなどは 分かりました。

 ご都合的な展開はありましたが、まぁそれなりに楽しめました。
 

 それにしても、三蔵法師が女優 という役所は、

 すっかり 決まり事のように なってしまいましたね。

 1978年の日本テレビで、夏目雅子が初めて 三蔵を演じたときは

 画期的なことでした。

 高貴で中性的なイメージの 三蔵法師を具現化し、

 夏目雅子の 美しさと凛々しさは 絶品だったと思います。

 堺正章の孫悟空も 格好のはまり役で、

 きんとん雲を呼ぶときの 指の仕草も当時 流行ったものです。

 ゴダイゴの 英語の歌詞による主題歌とも相まって、

 全く新しい 西遊記像が作り上げられたのでした。

 以来、TVドラマの西遊記は、三蔵を女優が演じる パターンが踏襲され、

 宮沢りえ,牧瀬里穂,そして今回の 深津絵理に受け継がれています。

 初代の 夏目雅子のときのように、男性を女性が演じる というのではなく、

 元より 女性の役を演じている感があります。

 今回の映画で、ニセ三蔵として登場する 倖田來未にいたっては、

 なんと 超ミニスカート姿ですよ。

 今の若い世代では、三蔵は尼僧だと思っている人が 多いのではないでしょうか? 

 次に 西遊記を作るときには、ぜひ本格的な 男優を抜擢してほしいものです。

(三蔵が尼僧だと思ってる人は、仰天するでしょうね。 (^^;))
 

 ちなみに、TVドラマ歴代の 三蔵法師以外の配役は下記の通りです。

(僕はやはり、初代のキャストが 最も適役だと思っています。 (^^) )

        三蔵法師  孫悟空   沙悟浄   猪八戒

1978年  夏目雅子  堺正章   岸部シロー 西田敏行
                              (パートⅡは左とん平)

1993年  宮沢りえ   本木雅弘  嶋田久作  河原さぶ

1994年  牧瀬里穂  唐沢寿明  柄本明   小倉久寛

2007年  深津絵理  香取慎吾  内村光良  伊藤淳史

偽者一行  倖田來未  南原清隆  草なぎ剛  猫ひろし
 

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2007年7月13日 (金)

「キサラギ」

 
 「ALWAYS三丁目の夕日」 の 古沢良太の脚本を、

 「古畑任三郎」 「僕の生きる道」 の 佐藤祐市監督が演出しました。

 D級アイドル・如月ミキが 自殺して一周忌の日、

 ファンサイトの5人が 追悼会のために集まります。

 家元,オダ・ユージ,イチゴ娘,安男,スネーク という

 ハンドルネームのオタクたちが、初めて 現実に顔を合わせる設定です。

 オタクたちを演じるのは、小栗旬,ユースケ・サンタマリア,香川照之,

 塚地武雅(ドランクドラゴン),小出恵介という、個性的な役者たち。

 舞台は この部屋の中のみ という密室劇で

(カリカチュアされた一部の回想シーンを除いて)、

 現在進行形で話は進み、映画の時間と 出来事の時間は同じです。

 如月ミキを偲んで 楽しむはずだった追悼会は、

 ミキの死の真相を巡って 大荒れになります。

 ミキは 自殺ではなかった、ミキは殺された、誰に……!? 

 いや、事故死だった……! 

 ドラマは 二転三転、四転五転していきます。

 コミカルかつサスペンスフルに 劇は進行し、一瞬たりとも飽きさせません。

 笑いは 大爆笑というより、勘のいい人から順番に

 笑いがここかしこから 沸き上がってくる、という類のものです。

 真犯人は誰か、話が進むにつれ 新事実が徐々に発覚し、

 それと共に 各人とミキとの、意外な個人的関係が 次々とあらわになっていきます。

 ミキが死んだのは 誰のせいだったのか、

 ミキにとって 誰が一番大切な人間だったのか?

 劇は綿密に計算され、ダイナミックに展開し、

 散りばめられた数々の伏線が、あとでピリッと効いてきます。

 やがて 推理は集約していき、全ての事実が繋がって 謎が解き明かされ、

 大団円を迎えた と思いきや、再び 新たな疑問が出てきて、さらに二転三転。

 そして最後は、皆が救われる思いでした。

 さすがに エンドロールの後のシーンは、屋上屋を重ねる 蛇足でしたが、

 笑わせて、ハラハラさせて、そして最後は じんわりとさせる、卓抜したシナリオです。

 たった一部屋の中だけの ワンシチュエーションドラマですが、

 シナリオの 完成度の高さによって、こんな傑作ができるのだ という作品でした。
 

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2007年7月12日 (木)

「あるスキャンダルの覚え書き」

 
 二大オスカー女優、

 ジュディ・デンチ (「恋におちたシェイクスピア」,「プライドと偏見」) と、

 ケイト・ブランシェット (「ロード・オブ・ザ・リング」,「バベル」) が

 真正面からぶつかり合います。

 労働者階級の子ばかりが通う ロンドン郊外の高校で、

 歴史を教える オールドミスのバーバラ (デンチ)。

 厳格で経験豊富な ベテラン教師ですが、斜に構えた 辛辣な物言いのためか

 恋の体験もなく、密かに孤独に 苛まれています。

 そこへやってきた 新米美術教師・シーバ (ブランシェット)。

 掃き溜めの鶴のような エレガントで美しい彼女は、

 ブルジョア階級の育ちで、平穏な家族にも恵まれ、人からも好感を持たれます。

 しかし 夫とは20才の歳の差、長男はダウン症で、

 40才になっても 一人前になれず、何か満たされない 孤独感を抱いているのです。

 そんなシーバに バーバラは関心を持ち、

 自分が求めていた 友人だと信じて 接近していきます。

 シーバも 人生の先輩バーバラを敬愛し、

 自宅に招いたりして、二人の関係は深まります。

 バーバラは シーバとの全てを 日記に記し、

 そのバーバラの独白を ナレーションとして、映画は進められていきます。

 ところが シーバは、15才の教え子と 肉体関係に陥ってしまいます。

 バーバラは 失望すると同時に、

 シーバの秘密を握ることによって 彼女を支配しようとするのです。

 複雑な愛憎が相まみえ、二人のパワーバランスは 揺れながら絡まりあっていきます。

 震撼するような音楽は 観る者の心を昂らせ、二人の情念は 激しく錯綜します。

 シーバに 欲情さえ感じる バーバラの歪んだ友情。

 醜くも凄まじい 妄念を演じる デンチの真骨頂です。

 極度に 相手に執着する 捩じれた愛情は、人格障害的な 傾きもありますが、

 ラストシーンのバーバラには、思わず 「恐え~!」 と感じてしまいました。
 

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2007年7月 8日 (日)

「柳川掘割物語」(4)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48765192.html からの続き)

 柳川の水路は、単に 昔への郷愁や 懐古趣味ではありません。

 水の暮らしの中の 合理性を再構築し、政治的・経済的圧迫の中で

 耐え抜く人間の 英知として、未来に引き継いでいこう というものです。

 今でも 柳川では定期的に、市職員や市民総出の 浄化再生に取り組んでいます。

 冬には、水底の泥をすくい取る 「水落ち」 が風物詩となり、

 鯉の手づかみに興じます。

 春は 「川まつり」 です。

 こうした “水との煩わしい付き合い” と、住民の共同精神の下に 柳川は蘇り、

 その悠揚たる姿を、今日もたたえているのです。
 

 周囲が全て 埋め立て計画という ひとつの方向へ動いていた時、

 たった一人 反旗を翻す男がいました。

 彼がいなければ、あるいは 彼の言葉に心を動かした 市長がいなければ、

 今 あの美しい掘割は この世に存在しませんでした。

 この柳川再生の思想は、現在では 日本中に普及し、

 排水の浄化や 資源のリサイクルは 当たり前になっています。

 しかし、高度成長時代の 真っ只中にあって、

 先見的なエコロジーの考え方を 訴えることは、

 果たしてどれほど 大変なことだったでしょう。

 人は 易きに流れがちです。

 それに逆らうのは 想像以上に困難を極めます。

 世の中は決して 自分の思うように行くものではありません。

 しかし、それでも敢えて 自分の信念を道連れに、

 理想を実践しようとする 人間の存在が必要です。

 世の中は 大半の人が保守的であるからこそ 成り立っていますが、

 中には こういうことをする人がいないと、社会は変化せず 腐敗してしまいます。

 一度は腐った 柳川の水路は、そんな人間の 熱意によって、

 人々の心も動かして、蘇ったのでした。
 

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2007年7月 7日 (土)

「柳川掘割物語」(3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48746537.html からの続き)

 これに耳を傾けた 当時の古賀市長は、

 国の助成まで決定している 埋め立て計画を一時中止し、

 広松に 半年間の時間を与えるという 英断を下しました。

 この限られた期間に 広松は、街中の水路を 徹底的に調査し、

 埋め立て計画推進者の 説得に当たらなければなりませんでした。

 それまでは 手紙を書くのさえ億劫だった という彼は、

 河川浄化計画の 膨大な資料を作成しました。

 そして 顎まで水に浸かりながら、自ら水草取りを 根気強く続けました。

 当初は、観光行政の片棒担ぎ との批判も出ましたが、

 広松の一途な姿勢を見て 住民も次第に、水の大切さを 再認識しはじめました。

 忘れかけていた 水との暮らしを 思い出していったのです。

 やがて、人々は 力を合わせて 川の掃除を始め、

 市を挙げての 浄化作業が着手されました。

 隣近所、子供たちも 総出でゴミを回収し、水草を取り、

 堀の水をくみ上げて、水底の泥を除去します。

 その水草や泥は 田畑の肥やしとなります。

 作業を通じて、人々の連帯感も 高まりました。

 そして、8年の年月をかけて、とうとう柳川は 命を吹き返したのでした。

 映画冒頭の、限りなく美しい 柳川の風景が蘇ります。
 

 合理主義の名の下に 進められる科学計画とは、いかなるものだったでしょう? 

 地下水をくみ上げるために 地盤は沈下する。

 下水は 無媒介にパイプに流し、水が足りなくなれば 遠方から力ずくで運んでくる。

 地表を コンクリートで固めれば、出水時には 水が地面にしみ込まず 街に溢れる。

 それらはどれも 目先の合理性です。

 自分の住む地の 水を活かし、自然のリサイクルに 身を委ねる暮らしと、

 果たしてどちらが 合理的と言えるでしょう? 

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48784187.html

 

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2007年7月 6日 (金)

「柳川掘割物語」(2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48722767.html からの続き)

 たまりかねた市議会は、何の役にも立たなくなった 中小水路を、

 全て コンクリートで埋め立てるという 計画を打ち出しました。

 上下水道のなかった 柳川に、地下水をくみ上げて 水を供給し、

 水路を埋めて コンクリートの下水道を設置する という構想です。

 住民も 環境の改善を切望し、国からの助成金も 得られました。

 今や どこの都市でも 掘割は過去のものとなり、都市計画が 進められています。

 これが時代の流れ というものです。

 それでも柳川は、大きな水路が 姿を留めるだけでも 恵まれている。

 計画に反対する者は 誰もいませんでした。

 水の街・柳川から、水路が 姿を消そうとしていました。
 

 下水路計画が 今まさに着手されようとした その時、

 一人の男が 異議を唱えました。

 都市下水路 係長となった 広松伝でした。

 風采の上がらない、不器用そうな 中年男。

 頭も薄くなって、訥々としゃべる、黒縁眼鏡の男です。

 広松は 訴えました。

 水路を埋めて 地下水を無制限にくみ上げると、

 水分70%の 有明粘土層でできている 柳川の地は沈没する。

 川を清浄にし、水路の機能を 回復することこそが大事だと。

 二千年の昔から、この地に住む人々の 幾多の苦労と知恵によって、

 縦横に巡らされてきた 無数の水路。

 随所に設けられている 堰 (せき)、桶門 (ひもん)。

 長い歴史の 試行錯誤を通じて、祖先たちが作り上げた 水利システム。

 それが、いかに自然の水を 巧みに利用した リサイクルであったか、

 常に水位を保って、いかに街を救い、人々に潤いを与えてきたかを、

 彼は懇々と 主張したのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48765192.html

 

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2007年7月 5日 (木)

「柳川掘割物語」(1)

 
 1987年の ドキュメンタリー映画ですが、

 現在のエコロジーに 通ずるものがあります。

 監督は 「火垂る(ほたる)の墓」 「おもひでぽろぽろ」 の高畑勲、

 制作が宮崎駿 という異色作です。
 

 福岡県柳川市、街には 大小無数の水路が 張りめぐらされ、

 日本のベニスのような趣です。

 静かに、ゆったりと流れる 水面(みなも)。

 花嫁を乗せて、たゆたうように 川を下る 「どんこ船」。

 鯉,鮒,ザリガニ,カササギ,草魚,雷魚,

 ウォーターヒヤシンス,四季の植物……。

 水路の点描は 限りなく美しく、目を奪われます。

 水と親しみ暮らしている 柳川の人々。

 人の生活と共に、水は澄むこともあれば 濁ることもあります。

 それでも柳川の水は、したたかに、清濁合わせ呑み、

 今日も街を巡って、人々に潤いと慰みを 分かち与えています。
 

 しかし、この柳川の水路は、

 決して 破綻なく悠久に 流れ続けてきたわけではありませんでした。

 昭和30年代からの 日本の高度成長時代、

 柳川の街も 工場や住宅からの 排水によって汚染が進み、

 膨大な廃棄物と ヘドロに埋まったのです。

 それに伴う 水草の増殖。

 水の流れは滞り、川は見るも無残に 荒廃してしまいました。

 蚊やハエの発生源となり、街中に臭気が充満しました。

 正に 川は死に瀕していたのです。

 映画の冒頭の 美しい柳川のシーンからは 想像もできない、

 粗大ゴミが積み上がった 不浄な映像は 非常にショッキングでした。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48746537.html

 

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2007年6月22日 (金)

「ダイ・ハード4.0」

 
 あのブルース・ウィルス演じる “世界一 運の悪い男” ジョン・マクレーン。

 シリーズ第3作から 12年ぶりの第4弾です。

 ブルース・ウィルスも 52才となり、体力は衰えているはずなのに、

 アクションはますます エスカレートし、超弩級の迫力シーンを 見せてくれます。

 予告編を観たときから 今回のアクションはすごい と思っていましたが、

 期待を裏切らない 痛快作です。

 ここまでやるかと思うほどの シーンの連続ですが、

 アクション映画としては 充分楽しませてくれます。

 今回の敵は サイバーテロ。

 全米のインフラをコントロールする コンピューターシステムをジャックし、

 街中を大混乱に陥れます。

 その巨大な ハイテクシステムに挑むのが、超アナログ人間のマクレーンです。

 コンピューターオタクの 青年・マットとともに、

 ボロボロになりながら 体当たりで打倒していきます。

 年中パソコンに向き合っているマットも 次第にマクレーンに感化され、

 いっちょ前の “英雄” になっていきました。

 また、マクレーンの 離婚した妻の娘 ルーシーも大事な役所です。

 最初は デートを父親に邪魔されて 絶交状態ですが、

 テロリストに拉致されると、パパが必ず助けに来てくれると 信じて疑いません。

 けれども さすがマクレーンの娘、

 ただ怯えて助けを待つ いたいけな女性ではありません。

 敵も手を焼くような 男勝りの女の子でした。

 それにしても、自分を助けるために トラクターも 戦闘機も 高速道路も、

 何でもぶっ壊して やってくる父親というのは、娘の目にはどう映るのでしょう? 

 彼らの駆け引きも 見物です。

 最後の 絶体絶命の大ピンチを 一発逆転するのも、常識破りの荒技でした。

 数々の修羅場をくぐり抜け、普通ならひとつでも出くわせば 一発で病院行きなのに、

 マクレーンは最後まで 立って歩いていて、正に不死身男の 面目躍如でしょうか。
 

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2007年6月21日 (木)

「大日本人」

 
 松本人志・監督 第1回作品です。

 松本人志演じる 大佐藤大 (だいさとうまさる) は、

 怪獣が現れると 防衛庁の要請によって、

 巨大化して 「大日本人」 となり、怪獣を退治します。

(前もって それを知っていて見たので、伏線の言葉も 面白く聞けました。)

 大佐藤家は 代々この役割を拝命し、現在の 大佐藤は6代目です。

 映画は、大佐藤が 密着取材を受けているらしいところから 始まります。

 失礼なことを平気で聞く インタビュアーに、

 大佐藤はボソボソと 言いよどみながら答え、

 ドキュメンタリータッチで 描かれていきます。

 かつては隆盛を極めた 大日本人も 現在ではうらぶれて、

 大佐藤は貧乏くさい格好で ぼろ家に独り暮らし。

 妻と娘にも逃げられ、世間からも飽きられています。

 4代目の頃は ゴールデンタイムで放映されていた 獣との闘いも、今は深夜枠。

(大日本人は 怪獣のことを 「獣」 と呼んでいます。)

 スポンサーの思惑に 振り回され、

 俗人のマネージャーの 言いなりにならなければならなかったり。

 今までにない どんなジャンルにも当てはまらない映画、と松本人志は言っています。

 確かに独特な映画ですが、僕はコメディーとして観ました。

 電流によって巨大化した 大日本人の造形は かなり良くできていると思います。

(巨大化したときに履くパンツまで しっかり用意されています。)

 動きも “それっぽい” し、獣たちも それぞれ傑作です。

(ただ、闘いの決着が 簡単につきすぎるのが、やや物足りませんでしたが。)

 ペーソスあり、真面目なバカバカしさあり、会場からも 笑いが漏れます。

 大爆笑ではありませんが、思わずクスクスと 笑ってしまう可笑しさです。

 今までにない映画 というのは、成功していると思います。

 しかし、ラストはちょっといただけず、

 あくまでも 大日本人の問題として 決着してほしかったと 思った次第でした。

 一見の価値はあります。
 

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2007年5月31日 (木)

「境界に生きた心子」 ドラマ企画その後

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47751954.html からの続き)

 先日、紹介していただいた Sプロデューサーが、

 「境界に生きた心子」と、僕の以前の作品を 読んでくれました。

 結果、Sプロデューサーが担当している ドラマの時間枠(2時間ドラマなど)では、

 取り扱ってくれる局がない ということでした。

 まぁ、最初から あまり期待しないで と言われていたのですが。(・_・;)

(TV番組は 主に、

 Sプロデューサーのような 制作会社のプロデューサーが 企画を作って、

 TV局のプロデューサーに持っていく という形になっています。

 僕のような フリーの物書きは、

 制作会社のプロデューサーに 企画案を提出するわけです。)

 番組は 作品個々のでき以前に、

 形式的な条件その他で 決まったりするものなので、やむを得ません。

 また 出直してやっていきます。
 

 
 ところで、話は別になりますが、

 ミクシィに 「境界に生きた心子」 のレビューの ページがあって、

 このところ 幾つか続けて 新しいレビューが 書き込まれています。

 何故か、割と続けて アップされることがあるみたいです。

 もし良かったら、参考までに見てみてください。

http://mixi.jp/view_item.pl?id=138247
 

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2007年5月22日 (火)

「境界に生きた心子」 ドラマ企画その後? 

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47444788.html からの続き)

 「境界に生きた心子」を NHKではドラマにできないだろうか ということで、

 拙著を見ていただいた Fプロデューサーから、今日

 Sプロデューサーを 紹介していただきました。

 今日は ボーダーの説明をしなければと思って、一生懸命 準備をして行きました。

 ところが Sプロデューサーは 10年前、

 日本テレビで 「心療内科医・涼子」 (主演・室井滋) を手がけていたそうです。

 ボーダーのことを よくご存じで、説明をする必要が なくなってしまいました。
(^^;)

 そして Sプロデューサーは、何と 「心療内科医・涼子」 の中で、

 松島菜々子扮する 境界性人格障害の話を 作っていたというのです。

 10年前にすでに ドラマに出ていたとは……(・_・;) 。

 僕は このドラマは ほとんど見ていましたが、この話は 記憶にありませんでした。

 当時は 僕もまだボーダーのことを 知らない時で、

 印象に 残らなかったのかもしれません。

 もっとも その時の話は、恋人を振り回す ストーカー的な内容だったそうです。

 こういう題材を扱うと、必ず 各方面からの批判がある ということでした。

 「境界に生きた心子」 は愛情の話として 描いていますが、

 そういう切り口は 思い浮かばなかったと

 Sプロデューサーは おっしゃっていました。

 僕は、愛情の大切さを描きたい,ボーダーの人の魅力も強調したい,

 一番苦しいのは本人なのだ ということを理解してもらいたい,

 ということなどを 伝えました。

 Sプロデューサーに 拙著をお渡しし、読んで連絡する とおっしゃってくれましたが、

 やはり ボーダーを取り上げるのは難しい と言っていました。

 TVドラマは NHKと言えども、どうしても 視聴率から逃れられず、

 視聴率を取れないものは 作ることができません。

 Sプロデューサーは 個人的には 心の問題に 非常に関心があるそうですが、

 まぁ結果は期待せずに 待ちたいと思います。

(Sプロデューサーは 現在 撮影に入っている 作品があるので、

 本を読むのに 時間はかかるとのこと。)
 

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47960007.html へ続く)
 

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2007年5月10日 (木)

「境界に生きた心子」 ドラマ企画案の件

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46383043.html からの続き)

 3月30日の記事に ドラマ企画案のことを書いてから、

 担当プロデューサーの ご家族が入院したり、

 ゴールデンウィークをはさんでしまったりで

 打ち合わせがすっかり延びていましたが、やっと 会うことができました。

 前回 プロデューサーと顔合わせした時点では、

 プロデューサーは 僕の企画案と簡単なストーリーを 見ただけで、

 まだ 「境界に生きた心子」自体は 読んでませんでした。

(ボーダーについても 理解していなかった。)

 今回 拙著を読んでいただいたのですが、その結果、

 TVドラマにするには 重すぎて扱えない ということになってしまいました。(;_;)

 観ていて辛くなってしまう というのです。

 TVはエンターテイメント(ただ面白おかしいとか お涙頂戴というのではなく)なので、

 ボーダーは題材的に難しい と言っていました。

 プロデューサーは、「私の頭の中の消しゴム」(若年性アルツハイマーの映画)のように

 感動の話にできないかと 考えていたようですが、

 ボーダーは内容が違うので どう描いていいか分からない ということです。

 ドラマ化に向けて やっと第一歩を スタートできたと思いましたが、

 結局 最初のハードルで頓挫してしまいました。

 まあ、ことほどさように ドラマ化というのは壁が厚いのです。

 仕方ないことです。
 

 そのプロデューサーは、僕の以前の別の作品も 見てくれたのですが、

 ホスピスをテーマにした 「生死命(いのち)」というマンガのほうに

 かなり関心を持ってくれました。

(参考: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/24725922.html

 シリアスな話なので NHK向きだが、自分はNHKと繋がりがないので

 別の知り合いのプロデューサーを紹介する、ということになりました。

 勿論そのプロデューサーが どう思うか分かりませんが、

 「境界に生きた心子」も 見てもらいたいと思っています。
 

 また次の機会を求めながら、じっくりやっていくつもりです。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47751954.html に続く)
 
 

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2007年4月27日 (金)

「クィーン」 (3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47104421.html からの続き)

 それにしても、まだ存命中の皇室と首相の ノンフィクション映画を作ってしまうとは、

 イギリス映画の 懐の深さなのでしょうか。

 監督のスティーブン・フリアーズは 王室周辺の人達に 徹底的に取材したそうです。

 女王の寝床や、ラフな服装で 四輪駆動を飛ばすシーンを撮ったり、

 日本ではあり得ないことですね。

 また、ブレア首相の家が 普通のサラリーマン家庭のような、

 雑然とした日常風景だったのも 興味をそそられます。

 エリザベス女王は この映画を観ていないそうですが、

 主演のヘレン・ミレンを 宮中に歓待したといいます。

 
 ダイアナ元妃は今も 世界中の人の 心の中に生きており、

 彼女の持つ魅力は 際立ったものがありました。

 それは 彼女がボーダーだったためでも あるのではないかと思います。

 ボーダーの人は 人に依存し、人の愛情がないと生きていけない。

 幼いときから 周囲の関心や愛情を得る術を 無意識に身に付けているのです。

 そのため、ボーダーの人は 魅力的な人が多いといいます。

 心子もまた そうだったでしょう。

 一方で、ボーダーであるが故の 激しい感情の嵐。

 ダイアナも人知れず、チャールズ皇太子の不倫などに対する、

 狂おしい感情の爆発に 苛まれていたといいます。

 ダイアナの不安定な心情が、王室との関係に 悪影響を及ぼしたでしょうか? 

 できれば、そういうことに由来する ダイアナと王室のあつれきも、

 見せて欲しかったと思いました。

 そのようなシーンがあったほうが、女王とダイアナの間の

 嫁姑の確執も 具体的に理解できたでしょうし、

 ボーダーとしての片鱗も 知ることができたでしょう。

 この映画は それが主眼ではありませんが、ダイアナ元妃を通じて

 ボーダーの理解が 広がればいいのだが、とも思う次第です。
 

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2007年4月26日 (木)

「クィーン」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47081789.html からの続き)

 女王とダイアナ元妃の間の確執も 取り沙汰されます。

「ダイアナは生きていても、死んでも厄介」

 それが王室の本音でした。

 一人の人間として 生きるダイアナと、伝統を重んじる王室。

 ぶつかることがあったであろうことも 想像されます。

 エリザベス女王は20代で即位し、その時から50年以上、

 常に国民のことを第一に考え、自分のことは 二の次にして生きてきたのです。

 自分の感情を 表に出すことはありませんでした。

 けれどもマスコミは ダイアナの味方でした。

 女王は王室として、マスコミに惑わされず 威厳を保っているのが

 英国人であると信じていますが、

 ブレアは マスコミが世論を動かすと知っています。

 ブレアは国民の雰囲気を察知し、声明を出すよう 女王に助言するのです。

 そこには 首相自身の評価を高めるための 計算もありましたが、

 新しい世代の宰相として 女王と国民との 橋渡しになる強い使命感でした。

 英国クィーンとしての尊厳を 持ち続けながらも、

 国民の激しい怒りを目の当たりにし、女王は葛藤したのです。

 国民なくして 王室もあり得ません。

 それは胸に迫る 切実な苦悩でした。

 格式高いクィーンの 人間らしい生々しい感情を、ヘレン・ミレンが繊細に演じています。

 ブレアは女王の隠された苦しみを理解し、その高潔な心を絶賛します。

 親子ほど年の違う エリザベス女王とブレアですが、

 どこか母と息子のような 感情でも繋がっていたようです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47132749.html

 

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2007年4月25日 (水)

「クィーン」 (1)

 
 ボーダーだったと言われている ダイアナ元妃が、

 衝撃的な事故死を遂げて 今年は10年目。

 この映画は ダイアナ元妃の突然の死から 1週間の間の、

 王室とエリザベス女王の葛藤を 描いた作品です。

 主演のヘレン・ミレンは 見事にエリザベス女王になりきった名演で、

 アカデミー主演助演賞を受賞し 話題になりました。

 本当に女王そっくりで、細かい立ち居振る舞いから 存在そのものが正に女王でした。

 もう一人 重要な役割を果たすのが、ブレア首相役の マイケル・シーンです。

 イギリスでは ダイアナ元妃が急逝する10ヶ月前に、

 トニー・ブレアが 最年少の首相として就任していました。

 
 ダイアナ元妃の逝去は、イギリス国民始め世界中の人に 大きなショックを与えました。

 けれどもこの時すでに 元妃はチャールズ皇太子と離婚しており、

 民間人であるということで、また 元妃の生家の希望もあって、

 エリザベス女王は ダイアナの死に一切関与しない という選択をしました。

 それはイギリス王室の 長年の習わしだったのです。

 しかし現代のイギリス国民は、ダイアナ元妃に 絶大な親愛の情を抱いていました。

 バッキンガム宮殿の門前には 人々が供える花束が 次から次へと届けられ、

 テニスコート一面ほどの広さが 埋めつくされます。

 王室が一言の声明さえ出さないので、国民の不信は募っていきます。 

 折しも王室一家は スコットランドに滞在中で ロンドンへ戻らず、

 国民は批判を高めていったのです。

 ダイアナを死に追いやったのも マスコミの最たる存在 「パパラッチ」でしたが、

 女王への非難を 大々的に報じたのもマスコミでした。

 およそ日本では 考えられない光景です。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47104421.html

 

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2007年4月12日 (木)

「明日、君がいない」

 
 オーストラリアの新鋭 ムラーリ・タルリ監督が、

 わずか19才で取り組んだ という映画です。

 友人を自殺で失い、その半年後に 自らも自殺しかけたという 実体験を元に、

 2年の歳月をかけて 作り出したといいます。

 6人の高校生のエピソードを、時間と視点を 巧みに交錯させながら 描いていきます。

 インタビューを交えながらの 語り口といい、

 伏線をふんだんに散りばめた 構成といい、

 ダイナミックで流麗な カメラワークといい、

 とても 映画制作が未経験だとは信じられない 驚くべき技巧の作品です。

 若いエネルギーで作ったというより、卓抜したテクニックで表現されています。

 登場人物のうち 自殺したのは誰なのかという サスペンスをからめ、

 舞台はほとんど学校のみという空間で 少年たちの内面に迫ります。

 同性愛や 身体障害という 苦悩を抱えた少年、

 成績優秀で 小説や音楽の才能もある少年、女生徒にもてるスポーツマンなど、

 様々な個性を持った人物たちが 互いに係わり合いながら 話は展開していきます。

 初めから自殺の動機を うかがわせる少年もいますが、

 何の悩みもないと思われた少年たちも、実は誰にも言えない秘密や葛藤、

 とんでもない問題などを 抱え込んでいることが、次第にあぶり出されてくるのです。

 決してあざとくない 自然な演出も秀逸でした。

 ただラストシーンだけが リアリズムに欠ける感が あったのが残念です。

 みずみずしくも生々しい 青春の苦しみを、

 鮮烈に見せつけてくれた 一作でした。
 

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2007年4月11日 (水)

「ツォツィ」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46674911.html からの続き)

 暴力と蔑みのなかで育った子は 暴力と敵対の生き方しかできないし、

 愛情を与えられた人間は 優しさやいとおしさなどの 感情が育まれるでしょう。

 この映画は正に そういうことを表現しています。

 それは 境界性人格障害の人も同じです。

 愛情というものが 人間にとって如何に大切なことか。

 全ての子に 適切な愛情が注がれる世の中に なってほしいと願うばかりです。

 

 この映画は 殺人や暴力的なシーンがあるという理由で、

 映倫のR-15指定 (15才以下は鑑賞禁止) を受けています。

 しかし 命の大切さや罪の意識に目覚め、人間としての希望を 描いている作品だとして、

 少年たちにも見せようという運動が 各所で起こっているようです。

 試写の日も上映後、中学生に見せてもいいかどうか というアンケートが行なわれました。

 結果は圧倒的に 見せるべきだという意見が 多数を占めました。

 見せないほうがいい という人たちも

 子供のことを 真剣に考えての末だったでしょう。

 でも 僕自身が中学生のときのことを考えてみると、

 やはり観て感動するだろうし 得るものが大きい作品だと思います。

(小学生だとショックが 大きいかも知れませんが。)

 ぜひ運動が実を結んで 中学生たちにも公開されるように なってほしいものです。
 

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2007年4月10日 (火)

「ツォツィ」 (1)

 
 南アフリカ映画で初めて アカデミー賞外国語映画賞を 受賞した感動作です。

 今なお人種差別が残り、貧困や病にあえぐ 南アフリカ。

 殺伐としたスラム街に暮らす ツォツィ(=不良)と呼ばれる少年。

 本名も名乗らず、盗みや博打を生業とし、人殺しさえも厭わない。

 暴力に明け暮れる すさんだ生活を送っているツォツィが、

 ある日 強奪した自動車に 生後数ヶ月の赤ん坊が 乗っていたのに気付きます。

 そこから 彼の心に変化が芽生えていくのです。

 人を傷つけることを何とも思わない ツォツィですが、

 さすがに可愛い赤ん坊を 虐げることはできず、何とか世話をしようとします。

 でも彼に 赤ん坊を育てることなど できるはずもありません。

 乳幼児を抱える 近所の若い女性に 母乳を飲ませてもらおうとしますが、

 そんなときでさえツォツィは、女性の家に押し入り 銃で脅して

 授乳させる方法しか知りません。

 しかし 赤ん坊に乳を与える女性を見ながら、ツォツィは 自分の母親や

 自分の幼いときのことを 思い出します。

 ツォツィ自身、父親の暴力的な環境で育ち、

 病気の母親から遠ざけられて 愛情を拒絶されてきました。

 ツォツィは そんな過去を封じ込めて 生きてきたのでした。

 忘れていた人間らしい感情が 次第に彼の中に蘇っていきます。

 いつしかツォツィは 女性の家に入ろうとするとき、

「頼む、入れてくれ」 と言い、

 女性が差し出した食事に 「ありがとう」 と礼をするようになるのです。

 そして 赤ん坊の父親は、ツォツィに対して 怒りや憎しみではなく、

 「信頼」 で応えようとしました。

 恐らくツォツィが 生まれて初めて受けた、人間としての 「品位」 でしょう。

 ラストは無上の 感動的なシーンでした。

 上映後、外に出てもまだ 目が潤んでいたような映画は 僕は初めてです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46701962.html

 

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2007年4月 8日 (日)

「バベル」

 
 菊池凛子が アカデミー賞 助演女優賞ノミネートで話題の、

 「バベル」 の試写を きのう観てきました。

 モロッコの遊牧民の少年が ジャッカルを退治するために 試し撃ちした銃弾が、

 アメリカ人観光客に 当たってしまったところから、

 関わる人々の歯車が狂い始め、それぞれ事態は最悪の方向へと 進んでいきます。

 モロッコの少年,アメリカ人観光客,メキシコ,日本で、

 別個の4つのできごとを 巧みに時間をずらしながら 見せていく構成は、

 実に卓越していました。

 メキシコ出身の アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、

 「21グラム」 に続く 長編映画3作目ながら

 見事な力量を 見せてくれました。

 予測できない苦境に 陥っていく人物たちの 非情なドラマを、

 ラストでは救いの物語へと 収束させていきます。

 タイトルの 「バベル」 は 旧約聖書の 「バベルの塔」 から取ったもので、

 言葉や心が通じなくなってしまった 人間世界を表しています。

 その意味では 菊池凛子扮する 日本の聾の少女は、

 言葉が伝わらない 孤独な魂を 象徴する役割です。

 無言の演技で 屈折した内面の喜怒哀楽を 表現していました。

 26才の菊池凛子が 女子高生を演じて 若干無理を 感じる所もありましたが、

 はじけた笑顔を見せるシーンなどは 充分可愛い少女でした。

 「境界に生きる心子」のドラマ化では、菊池凛子を主役とする 企画にしたら

 いいのではないかと 考えた次第です (^^; )。

(参照: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46383043.html

 

 
[余話]

 きのうは 都知事選投票日の前日。

 σ (^^;)は某候補に 気持ちが傾いていたものの、

 今回の選挙は情報不足で 誰に投票するか 最終決定しかてねていました。

 すると 「バベル」 の試写の前、駅でその某候補が 演説していました。

 時間があったので 聞いていましたが、それで 投票する気持ちが決まりました。

 これも何かの縁-- 「共時性」 かもしれません。

 「共時性」 は 「意味のある偶然」 ということで、

 単なる偶然として やり過ごしてしまうか、

 意味あるものとして 捉えるかどうかが 大事なことだと言われます。

 今日は その候補に投票してきます (^^; )。
 

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2007年3月31日 (土)

「ロッキー・ザ・ファイナル」

 
 60才になったロッキーが ボクサーに戻って、

 現役世界チャンピオンと対戦するという ロッキーシリーズの最終話。

 設定には無理があるし、構成は単純だし、

 派手な演出効果で リアリティの不足した試合シーンを 見せようとするし、

 突っ込み所は沢山ありますが、それでも 元気をもらえる映画でした。

 どんなに打ちのめされても、諦めずに 前に進み続ける。

 そのシンプルなメッセージは しっかり胸に響いてきます。

 何才になっても 希望を捨てずに 復活することはできる。

 現実的に必ずしも そうなるとは限らないとしても、

 やっていこうという気持ちには させてくれます。

(きのうの記事で http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46383043.html 、

 「境界に生きた心子」 のドラマ企画のことを 書きましたが、

 σ (^^;)も頑張ろうという気になります。)

 
 ロッキーと息子・ロバートとの やり取りも見どころでした。

 ロバートは 偉大な父の影に隠れて 自信を失っています。

 そして 現役復帰しようとする 父に訴えます。

「 父さんは もう年だろ。

 笑いものだよ。 僕まで笑われる。

 頼むからやめてくれ」

 そんな息子を ロッキーは叱責します。

「 いつからそうなった? 

 自分を信じなきゃ 人生じゃない。

 陰にかすれるのを 人のせいにして。

 そんなのは 負け犬のすることだ。

 だけど お前はそうじゃない!」

 最後の一言が 効きますね。

「 どんなことがあっても 俺はお前を愛してる。」

 この一言があるかないかで、非難されても 伝わるものは全く変わってきます。

(ここは この映画のテーマとはずれますが、このブログのテーマなので

 σ(^^;)はどうしても 感じ入ってしまいます。)

 ラストでは ロバートはロッキーに、

「 もう誰も笑ってない。 」

 と、父への尊敬を取り戻すのです。
 

 ところで、ロッキーと現役チャンピオンの試合が 実現するきっかけが、

 二人の対決を コンピューターでシュミレーションした テレビ番組だったというのは、

 いかにも今日的なアイデアで 上出来でした。
 

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2007年3月30日 (金)

「境界に生きた心子」 ドラマ企画案

 
 僕はネット上の あるシナリオライターのグループに属しています。

 そのメーリングリストを利用して、

 番組制作会社のプロデューサーなどから 時々企画の募集があります。

 先日も 某制作会社から募集がかかり、

 「境界に生きた心子」 を原作にした ドラマの企画案を提出しました。

 すると プロデューサーが関心を持ってくれて、

 「境界に生きた心子」 も読みたいので 一度会いたいと 連絡をくれました。

(昔 僕が書いたマンガにも 関心を持ってくれました。)

 そして昨日、制作会社へ行って 話をしてきました。

 この会社は 前は赤坂にあったのですが、今は青山に移転しています。

 心子との想い出の場所である 「神宮外苑銀杏並木」 のすぐ近くで、

 拙著の出版社・新風舎も 目と鼻の先です。

 何かご縁が あるのかもしれません。( ^^;)

 プロデューサーは、感動スペシャルの2時間ドラマとして

 企画書を書いてみないか と話しました。

 心の問題は 今やらなければいけないものだし、

 「私の頭の中の消しゴム」 のように 切り口次第で 感動的なドラマが描ける,

 フィクションとして良い企画書ができれば シナリオも僕が書くということで、

 テレビ局にプレゼンしたい と言ってくれました。

 ありがたい話です。

 それでまず、4~5枚のストーリーを 書いてみることになりました。

 やっと、スタートラインに立てたわけです。

 この先 ハードルは限りなく高いですが、とにかく頑張るしかありません。

 企画が通るのは 何十本何百本に1本で 現実は 物凄く難しいけれど、

 何とか少しでも 企画が進めばいいと思うのですが。

 なお、現実の 「境界に生きた心子」 では 心子は旅立っていきましたが、

 ドラマでは 観る人に希望を持ってもらうため、

 治療によって回復し 生きていくというラストにします。

 タイトルも 「境界に生きる心子」 としています。
 

 この日の帰りは、神宮外苑銀杏並木を 散歩してきました。 (^^)

 マンガ原作としての企画も 考えていきたいと思っています。
 

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47444788.html に続く)
 

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2007年3月29日 (木)

「ブラッド・ダイヤモンド」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46329185.html からの続き)

 自由、家族、真実。

 ひとつのダイヤを取り巻き、三者三様の目的に向かって 彼らは動き始めます。

 時には力を合わせ、時には相手を騙し 利用し、虚々実々の戦い〈conflict〉です。

(これが この映画のコピーとなっている 5つ目の 「c」 です。

 つまり、ダイヤモンドの価値を決める 4つの 「c」

 「色〈color〉」、「カット〈cut〉」、「透明度〈clarity〉」、

 「カラット〈carat〉」 の、次の 「c」 だそうです。)

 政府軍,反政府軍が交錯する 凄まじい銃弾をかいくぐりながら、

 三つ巴、四つ巴の攻防は スリリングでサスペンスフルです。

 家族のためなら いかなる犠牲も惜しまない ソロモン。

 自由のために 命さえかける アーチャー。

 強大な闇の世界を前にして 無力なジャーナリストの立場を 打破したいマディー。

 やがて彼らの間に 例えようのない 友情や愛情が生まれてくるのです。

 そのラストは感動的でした。

 
 レオナルド・デカプリオは 前作 「ディパーテッド」 に続き、

 裏世界の悪役を 渾身の力を込めて 熱演しています。

 ゴールデン・グローブ賞で 史上初の主演男優賞Wノミネートも 頷けます。

 「タイタニック」 から 力強く成長したといえます。

 「ラストサムライ」 の監督・エドワード=ズウィックの メッセージは、

 強烈な真実で 心を動かされるものでした。
 

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2007年3月28日 (水)

「ブラッド・ダイヤモンド」 (1)

 
 激しい内戦状態の アフリカ・シエラレオネを舞台に、

 ピンクの巨大ダイヤモンドを巡って、人々の野望や欲,悲願などが 交錯します。

 「ブラッド・ダイヤモンド」 という ダイヤモンドの不正取引は 事実だそうです。

 社会派映画としても、アクション,サスペンスとしても、

 そして 愛のドラマとしても 一級の作品でした。

 政府軍と、解放軍とは名ばかりの 殺人集団と化した 反政府軍RUF。

 日常の村で、町で、突然 反政府軍が銃を乱射して 住民を無差別に虐殺します。

 そして 略取した子供たちを、今度は殺人兵へと 洗脳しているのです。

 同じアフリカ人同士が 何故 殺し合わなければならないのか? 

 RUFの資金調達のための ダイヤモンドの裏取引が アフリカ人を搾取します。
 

 メンデ族の愚直な漁師・ソロモン(ジャイモン・フンスー)は RUFの襲撃に合い、

 家族と引き離されて ダイヤモンドの採掘場へ 強制連行されます。

 そこで偶然 巨大なピンクダイヤモンドを見つけ、土中に隠しました。

 ダイヤの密売人である アーチャー(レオナルド・デカプリオ)は

 刑務所で たまたまソロモンと出会い、

 家族を探してやる代わりに ダイヤの隠し場所に 案内するよう持ちかけます。

 それを資金にして 暗黒のアフリカから脱出し、自由の身になろうとするのです。

 一方、女性ジャーナリストの マディー(ジェニファー・コネリー)は

 ダイヤの不正取引を暴くため、証拠となる真実を求めています。

 アーチャーはマディーにも働きかけ、裏取引の情報提供の見返りとして

 ジャーナリストの立場を使って ソロモンの家族を見つけることを求めます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/46357255.html

 

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2007年3月27日 (火)

「ラストキング・オブ・スコットランド」

 
 ウガンダのアミン大統領を描き、主演のフォレスト・ウィテカーは

 ゴールデン・グローブ賞を始め、主演男優賞を総なめにしました。

 アミンは庶民出身で、旺盛なキャラクターと カリスマ性で国民を魅了し、

 多大な期待と共に 大統領に就任しました。

 しかし 独裁者への道を たどっていくに連れて、

 暗殺される妄想に怯え、裏切り者を惨殺し、利己的なモンスターになっていきます。

 失脚するまでに 30万人の国民を 殺害したといいます。

 そんなアミンの姿を、フィクションの人物である 青年医師・ニコラスの目を通して描きます。

 ニコラスは若いながら 有能で、勇気や行動力もあって アミンの主治医に登用されます。

 しかし後半、アミンの無謀さに恐れをなし、逃れようとしますが 拘束されます。

 それに やめとけばいいのに 向こう見ずにも アミンの側室と密通し、

 アミンの逆鱗に触れるのです。

 アミンは、人間として考えられる 最悪の残虐な行為にも 少しも心が痛みません。

 世界の独裁者の内面は 共通しています。

 孤独で 人を信用せず、臆病で 残忍で、自分のためなら どんなものでも平気で犠牲にする。

 要するに 彼らは人間的に未熟、子供なのです。

 無邪気でチャーミングな一方、わがままで 人の痛みが分からず、

 何をしてもいいと思っている。

 そんな人間が 力を持ってしまうことが 恐ろしいのですね。

 彼らは 力で人を押さえ込むことが やがてどういう結果を招くか 分かっておらず、

 いつかは 自らも無残な最後を迎えます。

 それは歴史が証明しており、人類の叡智は 民主主義を生み育ててきたのに、

 今も世界に残る暴君は 何故それを学ぶことができないのか 全く不可解です。

 一日も早く この地球上から 独裁者が一人もいなくなってほしいと、

 この映画を観ても 願ったものでした。
 

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2007年3月25日 (日)

「デジャヴ」

 
 デンゼル・ワシントンが刑事役で、女性の死体事件に 既視感を覚える

 という程度の 予備知識で観ました。

 「デジャヴ」 というタイトルからして、

 サイコサスペンスのような 話かと思っていましたが、

 過去の時空と通じる 装置を作ってしまったという SFでした。

 おまけに 過去に人間を送る というシーンなどは、

 まさしく 「バブルへGO! タイムマシンはドラム式」 とそっくり! (^^;)

 しかしまあ それは偶然のご愛嬌として、全体としては かなり良くできています。

 女性を救うために 過去を変えたはずなのに、

 何故か 元の現実の通りに 進んで行ってしまう。

 一体どこで変わるのかというサスペンスには 引き込まれました。

 しかし デンゼル・ワシントンが、大量殺戮の爆破事件を防ぐためではなく、

 見知らぬ一人の女性を助けるために 過去へ行くという理由付けは いかがなものか。
 

 タイムマシンのように 時間を扱った話では必ず 論理的な矛盾が出てきますが、

 「デジャヴ」 と 「バブルへGO!」 では、

 ちょうど同じ矛盾に対して 反対の対処をしていました。

 人間を過去に送った時点から 過去はその影響を受けて変化し、

 パラレルワールドが生じます。

 その世界が 現在まで経過してきたとき、

 元々の世界にいた本人の存在は どうなるのかというパラドックスです。

 「バブルへGO!」 では そこに触れずにごまかし (^^;)、

 「デジャヴ」 では うまく(都合よく)利用して、気のきいたラストにしていました。
 

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2007年3月 7日 (水)

「あなたになら言える秘密のこと」

 
 「死ぬまでにしたい10のこと」 のイサベル・コイシェ監督と

 サラ・ポーリーのコンビが、再び 命や人生の重さを 描いた作品です。

 工場で日々 黙々と働く ハンナ(サラ・ポーリー)は、

 誰にも心を開かず 毎日同じ質素な弁当を食べて 過ごしています。

 何か重い陰を 背負っているようで、時々ハンナの耳に聞こえる 少女の声,

 ハンナがある女性に架ける 無言の電話……、

 いくつもの謎を秘めながら 話は始まっていきます。

 ハンナは元看護士で ひょんなことから、

 油田掘削所で大怪我を負った エディー(ティム・ロビンス)の

 看護をすることになります。

 エディーは2週間 寝たきりで 目も見えませんでした。

 体の痛みがありながら おしゃべりな男で、

 一日中 世話をしてくれるハンナに 色々なことを話しかけます。

 しかしハンナは 自分の本当の名前さえ言わず、義務的に看護をするだけです。

 でもユーモアを交えた エディーの会話に、薄皮を剥がすように

 気持ちがほぐれていきます。

 そして やがて、ハンナの壮絶な過去が 語られるのです……。

 あまりにも凄惨な体験のため、完全に心を閉ざして 生きてきたハンナでしたが、

 エディーの存在によって 生き返っていく物語です。

(その体験について 色々感じ考えさせられますが、

 ネタバレになるので 書けないのが辛いところです。)

 ハンナの心のプロセスを サラ・ポーリーが丁寧に演じています。

 そのラストシーンは 秀逸です。

 生きることの重さと 希望を感じた作品でした。
 

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2007年3月 6日 (火)

「世界最速のインディアン」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/45694307.html からの続き)

 インディアンを購入した時は 時速87キロしか出なかったそうです。

 マンローはそれに 我流の改造を加え続け、何と320キロ以上を記録する

 世界最速のマシーンに 仕立て上げてしまいました。

 けれど スタートは人に押してもらわないと動かず、

 ヨロヨロと蛇行しながら 加速していくのです。

 あんなオンボロのバイクが どうしてそんな早く 走れるのかと不思議ですが、

 実話なのだから 事実なのでしょう。 (^^;)

 映画はメカニックなことや、最速のスピードを競う アクション映画としてよりも、

 マンローの人物像を 前面に出しています。

 マニアックなスピード狂ではありますが、荒々しいタフガイではなく、

 年のせいもあるのか マイペースで無骨な 憎めない老人です。

 それを 「羊たちの沈黙」 で あのハンニバル・レクターを怪演した、

 アンソニー・ホプキンスが演じています。

 還暦を過ぎてもなお 最速の夢を追ってやまない 自由人。

 仲のよい隣の少年に、 「夢を持たない奴は 野菜と同じだ」 と話します。

 大小のトラブルに見舞われながら、“鈍感力” のあるマンローは

 どんなアクシデントも 笑い飛ばして進んでいきます。

 そして ピンチには必ず 誰かが助けてくれるのです。

 彼の人柄が 周りの人の人情を 引き出すのですね。

 そんなマンローの生きざまに、まだまだ捨てたもんじゃない

 という気概を もらった気がしました。
 

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2007年3月 5日 (月)

「世界最速のインディアン」 (1)

 
 ニュージーランドの 実在のバイクライダー、バート・マンローを 描いた映画です。

 「インディアン」 はマンローのことではなく、愛車のオートバイの名前です。

 21才のときに インディアンを購入し、以来40年以上 独力で改造を繰り返し、

 最速のスピードを 追い求め続けてきたのです。

 ところが、貧乏なので 部品は台所のドアや コルクの栓。

 スピードメーターもなく ブレーキも効かず、

 タイヤのゴムを ナイフで削ったりしています。

 万事にわたって 常識破りのマンローは 隣人に迷惑をかけつつも、

 素のままの人柄で 不思議と誰からも好かれてしまうのです。

 そんなマンローも 63才になって 心臓を傷め、医者からバイクを止められます。

 でも医者の言うことなど 聞くはずもないマンロー。

 先が長くないことを知ると、

 生涯の夢である スピードの世界記録に 挑戦することを決心します。

 目指すは ライダーの聖地、アメリカ・ユタ州の ボンヌビル・ソルトフラッツ。

 湖が干上がった 塩の大平原で、どこまでも続く 広大な平坦地です。

 時速数百キロのスピードを測定できる 世界でも3ヶ所しかない場所なのです。

 マンローは こつこつと貯めた 虎の子を懐に、

 インディアンとともに ボンヌビルへの旅に出ます。

 映画は スピードレースの地へと向かう ロードムービーとして描かれます。

 マンローは道中 色々な人に出会い、誰とも親交を結んでしまうのですね。

 精力のほうも なかなかのものです。

 ついに ボンヌビルへと辿り着いた マンロー。

 ところがレース直前、マンローの前に 最大のピンチが立ちはだかるのでした。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/45727529.html

 

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2007年2月16日 (金)

「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」

 
 1999年のバブル崩壊を防ぐため、広末涼子の演じる真弓が

 タイムマシンで17年前の日本へ飛ぶ というコメディです。

 ドラム式洗濯機の 開発をしている途中、偶然に洗濯機がタイムマシンに

 なってしまうという かなりハチャメチャな設定です。 (^^;)

 前半のストーリー展開は 真弓の目的のための 行動が弱くて〔*注〕、

 やや かったるい感じがしましたが、

〔*注:シナリオ用語で、「貫通行動」 「超目標」 といいます。 (^^;) 〕

 バブル真っ盛りの17年前と 現在とのギャップに 驚く人物達の、

 ドタバタを面白く観られます。

 バブルに浮かれていた 当時の人たちの姿が描かれますが、

 σ (^^;)個人的には いつでもビンボーなので、

 17年前も今も 経済状況は変わりません。 (^^;)

 真弓は 大蔵省の下川路(阿部寛)と 絡み合いながら、

 次第に超目標へと 向かっていきます。

 意外な事実も発覚して 一興です。

(それにしても 阿部寛は、若い時はかっこいいだけで なんの芸もありませんでしたが、

 今は実力を備えた 渋い存在感のある 役者になりましたね。)

 山場のアクションは ちょっと無理がある所もありましたが、これはご愛嬌。

 落ちもしゃれていて 満足できました。

 タイムマシン物では 理屈的に絶対 矛盾が出てくるんですが、

 それには目をつぶります。

 好調な日本映画の 一角に位置する作品でしょう。
 

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2007年2月15日 (木)

「守護神」

 
 2月9日にオープンしたばかりの 新宿のシネコン

 「バルト9」 で観てきました。

 アメリカ沿岸警察の活躍と、訓練校での毎日を 描いた映画です。

 日本の 「海猿」 のパクリではないでしょうが (^^; )、

 オリジナルな人間ドラマの面白さや アクションシーンの迫力も、

 「海猿」 に勝るのではないかと 感じました。

 ケビン・コスナー演じる 曹長・ベンの下、新入生のジェイクたちは

 卒業率50%以下という 厳しい授業で 心身しごかれます。

 軍隊みたいなもので、必死に頑張っても 辛辣な言葉で怒鳴られ、

 人格を尊重されるようなことはありません。

 ハイスクールの水泳のチャンピオンである ジェイクに対して ベンは、

「プールは深くて 危険だな。

 2メートル以上あるか。

 隣の選手の妨害は?」

 などと、痛烈な皮肉を言うのです。

 入学早々 1時間以上も立ち泳ぎをしたり、氷水の中で耐久訓練をさせられたり。

 人命救助をするためには、こんな過酷な修業を

 くぐり抜けていかなければならないのかと 感じ入ってしまいました。

 また、救助の現場では どうしても全員を救うのが 不可能で、

 誰を救って 誰を諦めるか、 

 究極の決断をしなければならない 局面もあるということを 教えられます。

 実際のドラマで 観客にそういうシーンを見せることも 胸に迫るでしょうが、

 若い訓練生に こういう現実を突きつけるというシーンも 感慨があります。

 
 ジェイクは 能力は一級ですが、最初は自分のことしか考えず

 色々な問題を起こしたりしますが、実は辛い体験を抱えています。

 それでも、同じく過去のあるベンの 厳しい指導に 反発しながらも耐え、

 人間的にも一流の 警備隊員に育っていく姿には やはり感銘します。

 ラストも 胸を締めつけられるものがありました。

 充分に楽しめる 娯楽作品でした。
 

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2007年2月 8日 (木)

「幸せのちから」

 
 ウィル=スミス主演の 実話を元にした作品です。

 骨密度測定器を売るクリスは 事業に失敗し、

 妻に逃げられ、アパートも追い出されてしまいます。

 幼い息子を抱えて、一流証券会社への就職に 挑戦することになりました。

 しかし、採用されるのは 20人のエリートの中から たった一人、

 しかも 半年間の研修期間は無給という 過酷な条件なのです。

 現代版 「自転車泥棒」 (1948年・伊) と評する レビューがありましたが、

 まさに どん底で奮闘する ペーソスも感じさせました。

 僕には子供はいませんが、守るべきものがあると 人間は本当に強くなれるのですね。

 クリスの息子を ウィル=スミスの実の息子が演じ、

 とても自然で 達者な芝居を見せていました。

 将来期待の役者ではないでしょうか。

 
 ストーリーは、こんな偶然のハプニングばかり起こるか

 と思ってしまう所もあるのですが、

 ラストシーンの演出と ウィル=スミスの抑制しきった演技が、

 深い感動を呼び起こします。

 終わり良ければ 全て良し、 と感じてしまった映画でした。
 

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2007年2月 7日 (水)

「それでもボクはやってない」 (3) [おまけ 「愛の流刑地」]

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44904348.html からの続き)

 「10人の真犯人を逃がしても、一人の無辜 (無実の人) を生んではならない」。

 裁判の金科玉条です。

 ところが 日本の裁判の現状は、それが死守されないだけでなく、

 “疑わしきは 被告の不利益に”

 とされているのが 現実であるかのようです。

 そういう意味でも、2009年に施行される 裁判員制度の必要性は

 非常に大きいのかも知れません。

 そんなことを思わされた 作品でした。
 

 
(この日 (映画の日) は、もう1本 法廷劇の映画を観ました。

 渡辺淳一・原作の 「愛の流刑地」 です。

 性行為の最高潮に達したとき 女が男に 首を締めて殺してくれと懇願し、

 実際に死なせてしまうということが ありうるのか、

 僕には分からないので 何とも言えないのですが……。

 「それでもボクはやってない」 で、主人公と拘置所で相部屋の

 ちょっとオカマっぽい役回りだった 本田博太郎が、

 この映画では裁判長役をしており 少々苦笑い。

 また 長谷川京子の演じる 女性検事が、やけに肌の露出度が多くて

 法廷でもシナを作ったりし、声も高目で 浅薄に思われました。

 周防監督のリアルな演出に比べて 見劣りを感じてしまった次第です。)
 

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2007年2月 6日 (火)

「それでもボクはやってない」 (2)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44885903.html からの続き)

 国家権力の前に 我々は全くの無力です。

 容疑者段階での人権蹂躙も 目を覆うばかりのものがありました。

 推定無罪でなければ いけないはずなのに、

 拘置所から検察庁へ送られる際の 罪人扱いぶりは 僕も始めて知ったことで、

 信じられないくらい 屈辱的な待遇でした。
 

 周防監督は、とにかくリアルに表現することを 心がけたということです。

 供述調書は 全く警察の作文であること,

 検察官も 容疑者の話を 端から聞いてくれないこと,

 日本の裁判の有罪率は 99.9%であること,

 裁判官も自分の保身のために 公正さを欠いてしまうのは人情であること,

 それらが 簡単に起こりうる現実を 映画は伝えてきます。

 言うまでもなく、全ての裁判官,検察官,刑事が 悪質なのではなく、

 いい人間は当然 沢山いるわけで、何でも冤罪になるわけではないでしょう。

 でも 裁判官という職業に限っては、他の仕事のように

 いい人もいれば 悪い人もいる、では困ってしまいます。

 悪徳医師や 不正な警官などから 被害を受けたとしても、

 裁判はその悪を正す  「最後の砦」 でなければならないはずです。

 ところが、日本の裁判は 真実を明らかにする場所ではなく、

 法廷という限られた空間で、書類の上だけで、裁判官の心証で、

 取り敢えず 判断が下されるに過ぎないのだ ということが表されます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44935988.html

 

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2007年2月 5日 (月)

「それでもボクはやってない」 (1)

 
 周防正行監督の 11年ぶりの最新作です。

 実際にあった 痴漢冤罪事件をベースにして、

 あたかも ドキュメンタリーのように作られています。

 主人公の男性(加瀬亮)が、満員電車のドアに挟まれた 自分のコートを引き抜こうと

 手を動かしていたのを、前にいた女性に 痴漢と間違われたこと,

 それを目撃していた 別の女性の証言があったこと,

 友人や家族達が総出で 電車内の再現実験をして、

 主人公に犯行は無理だと 実証したことなど,

 事実をそのまま踏襲しています。

 もちろん 事実とは違う部分もあり、ラストに向かいます。

 実際の事件の経緯は 僕も報道を通じて よく知っているので、

 話の流れは分かっているわけですが、それでも 引き込まれて観てしまいました。

 但し、周防監督が作る必要が あった話なのか、とは思ってしまいますが。

 
 周防監督は この冤罪事件を取材するうちに、日本の裁判のシステムに疑問を抱き、

 人権侵害への怒りや 冤罪を生む土壌を 訴えたかったといいます。

 僕も以前、裁判官のことを調べたことがあるので、

 信用していた日本の裁判でも 冤罪は充分ありうるのだ ということは知っていました。

 でも それを実写で表現した この作品を観て、

 もし自分が 無実の罪を着せられたときの 裁判の恐ろしさを、

 実感として感じました。

 元々 物証のない痴漢事件では、

 やっていないということを 被疑者側が証明しなくてはなりません。

 それは やったことを証明するより はるかに難しいことです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44904348.html

 

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2007年2月 4日 (日)

「どろろ」 (3)

 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44813722.html からの続き)

 百鬼丸に同行するどろろも 魔物と闘う百鬼丸に加勢して、

 次第に二人は 兄弟のような感情で 結ばれていき、

 さらには 男女の愛情にも育っていきます。

 その道程で、百鬼丸の体を魔物に差し出したのは ほかならぬ百鬼丸の父・景光であり、

 その父に捨てられたのだ ということが分かってきます。

 百鬼丸は どろろの宿敵の子供だったのです。

 どろろの心には 憎しみと愛情の 激しい葛藤が渦巻きます。

 百鬼丸は、生きる目的を 失いかけてしまいます。

 決別する二人ですが、どろろは再び 百鬼丸