2010年6月16日 (水)

裁判員による 境界性パーソナリティ障害の責任能力の判断 (2)

 
(前の記事からの続き)

 公判後、 鑑定医は 説明の分かりにくさを 認めた上で、 次のように述べました。

 「精神鑑定は 症状だけでなく、 生い立ちや病歴から 総合的に判断する。

 個々の行動が 精神疾患に該当するかどうかだけで、

 責任能力の有無を考えるのは 本質でない。

 判決を見ると、 その点は 理解されたと思う」

 ある検察官は、 こう話します。

 「プロは 病名などに拘りすぎるのかもしれない。

 ただ、 医師の説明によって、 裁判員は 病気そのものの理解ができなくても、

 責任能力を判断する 手がかりになるのではないか」

 従来の裁判では、 被告が統合失調症かパーソナリティ障害かを 判断することが、

 判決の分かれ目になったのでしょう。

 しかし この裁判員裁判では、 病名を判断するのではなく、

 被告の 犯行時の心の状態を、 市民感覚による常識で 見極めたことになります。

 本人が 悪いことと分かっていたかどうか、 それが決め手になったようです。

 (うつ状態やパーソナリティ障害のために 執行猶予が付いたのか、

 新聞記事からは 分かりませんでしたが。)

 確かに 専門家でも、 統合失調症かパーソナリティ障害かの 診断は簡単ではなく、

 誤診されることも 多々あります。

 境界性パーソナリティ障害を 知らない裁判員が、

 それを短時間に 正確に理解するのは、 ほとんど不可能ではないでしょうか。

 その診断によって 量刑を決めるより、 被告の心に 素直に目を向けて、

 責任の大きさを考えるのが、 あるいは 妥当なこともあるかもしれません。

 判決に 診断名は必要ない……?

 非常に 難しいところではあると思います。

 裁判員制度だけでなく、 罪と罰とは何かという 本質的な問題に関わる、

 大切な問題でしょう。

〔 参考・ 引用文献 : 読売新聞, 毎日新聞 〕
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月15日 (火)

裁判員による 境界性パーソナリティ障害の責任能力の判断 (1)

 
 今年3月の裁判員裁判で、

 境界性パーソナリティ障害の 可能性がある被告の 公判がありました。

 その責任能力が 焦点となった審理です。

 自宅に放火した女性 (27才) は 被告席で、

 「なんでこんな所に 来ないといけないの」 と、

 祈るように 両手をすり合わせました。

 裁判員は 緊迫した法廷に 息をのんだといいます。

 弁護側は、 被告は統合失調症で 心神喪失状態だったとして、 無罪を主張。

 それに対し 検察側は、

 境界型パーソナリティ障害よるもので、 完全責任能力があるとしました。

 統合失調症なら無罪、 パーソナリティ障害なら有罪 という構図になります。

 公判では、 精神鑑定医が 検察側の証人として出廷しました。

 しかし 専門用語が飛び交い、 裁判員には 全く理解できない人も 少なくなく、

 質問することすら 諦めてしまった人もいました。

 被告は 統合失調症なのか、 境界性パーソナリティ障害なのか。

 判断が付きそうにないと思った ある裁判員は、

 別の視点から 責任能力を考えることにしました。

 「医学的な判断ではなく、 自分が これまでの人生で培った 常識を頼りに、

 犯行前後の 被告の精神状況や行動が、 理解できるものかどうか」

 「細かい用語にとらわれず、 火をつけたことを認識し、

 悪いことと分かっていたかどうかを 中心に考えよう」

 被告は放火後に、 外に出て 震えていたということです。

 裁判員は、 行動の意味を議論しようと 思いました。

 そして、 判決は 懲役3年、 執行猶予4年。

 うつ状態にはあったとしましたが、 完全責任能力を認めました。

〔 参考・ 引用文献 : 読売新聞, 毎日新聞 〕

(次の記事に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月30日 (日)

触法精神障害者と 刑事責任能力 (5)

 
(前の記事からの続き)

 昨日のフジテレビ 「刑事・鳴沢了」 で、

 触法精神障害者の事件をやっていました。

 連続女性殺人事件の犯人が 精神障害 (詐病) で罪を逃れ、

 被害者遺族が 犯人を殺そうという話です。

 ラストシーン、 遺族役の遠藤憲一の 真に迫る演技は、

 やり場のない 遺族の激しい怒りが 痛切に伝わってきました。

 責任能力がないからといって、 家族を殺された遺族の 犯人に対する憎しみは、

 到底おさまるものではありません。

 その悲しみや怨念は、 僕にも 身を切られるように理解できました。

 では、 詐病の場合は別にして、

 責任能力のない者でも 罰するべきだということになるでしょうか? 

 例えば、 もし仮に 加害者が、

 誰かに催眠術でもかけられて 殺人を犯してしまったとしたら、

 遺族の怒りは 加害者よりも、 催眠術をかけた人間に 向かうのではないでしょうか。

 加害者本人は 殺意も通常の意識もなく、 ただそうさせられてしまっただけで、

 その人に責任があるのではないということが、 遺族にも分かるだろうと思います。

 それと同じように、 例えば 精神病の幻覚や幻聴のために 人を殺めてしまったら、

 それは 本人の意志ではなく、

 「別の力」 によって やらされてしまっただけなのです。

 しかし その場合には、 遺族の感情の ぶつけ所がありません。

 そのため怒りは 加害者向かうしかないのでしょう。

 でも 催眠術の例で考えれば、 加害者に責任はなく、

 憎しみは 加害者に向けるべきではないということが 分かるはずだと思います。

 そこで 刑罰とは別に、 遺族の 怒りや恨みを和らげる、

 心のケアの対処が 必要になってくると考えるのです。

 それは難しいからといって 加害者を罰しても意味はなく、

 法治国家として 国民の心の安寧を 保障していかなければならないと思います。
 

〔追伸〕
 
 催眠術では、 かけられた人が 元々 悪だと思っていること

 (道義的にできないと 思っていること) は、

 やるように仕向けられても できないということを、

 以前 TVでやっていたのを 思い出しました。

 それは願わしいことですが、

 上記の記事は 例えですから、 不都合はないでしょう。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月29日 (土)

触法精神障害者と 刑事責任能力 (4)

 
(前の記事からの続き)

 責任能力のない者を 処罰してならないのは、

 「責任主義刑法」 という 刑法の大原則です。

 刑法39条は それに基づいたもので、

 その対象者は 刑罰ではなく医療の対象になるのです。

 では 精神障害者は、 一般の人より 犯罪を犯しやすくて 危険なのでしょうか? 

 精神障害者の犯罪率は、 一般人の 約三分の一だと言われます。

 ただ、 殺人や放火などは 精神障害者の割合が高いようです。

 しかしそれらの人は、 犯行時に治療を受けていなかったり 中断している場合が多く、

 適切な治療をしていれば 防げる可能性が高かったでしょう。

 治療を受けられる社会体制を 整備する必要があります。

 それには、 精神障害に対する 偏見を改め、

 患者が病院へ 行きやすくすることも大切です。

 再犯率においても、 精神障害者は 一般人より低くなっています。

 殺人の再犯率は 双方でほとんど変わらず、

 放火のそれは 一般人のほうが かなり高いということです。

 正しい情報によって、 精神障害者に対する 誤解を解消していかなければなりません。

 精神障害者に 自傷他害の恐れがある場合、

 強制的に入院させる 措置入院の制度は、 治療という 本人の利益のためです。

 それに対して、 治安維持のために 入院させるのは、

 刑罰に代わる 処罰としての拘束にもなりえます。

 これは、 かつて否定された 保安処分に通じるもので、

 危険な考えだと 言う人もいます。

 治療のための入院と、 治安のための入院は、

 厳に分けて考えなければならない ということです。

 正しい情報や解釈によって、 精神障害者と理解し合い、

 互いに共生する 社会にしていきたいものです。

〔参考文献:

http://www.seirokyo.com/archive/folder1/shokuhou/seimei/0109satomi.html
http://www.kyotoben.or.jp/siritai/menu01/i22.html
 

(次の記事に続く)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月28日 (金)

触法精神障害者と 刑事責任能力 (3)

(前の記事からの続き)

 罪を犯した精神疾患者の 治療や矯正は、 自傷他害の恐れがある場合、

 病院や施設に 入院・ 入所して行なうものです。

 従って 自由は拘束されます。

 治療, 矯正, 再発防止の責任は、 むろん国にあります。

 そして 言うまでもなく、 精神疾患者には人権があります。

 むしろ 自立して生きていけない面、

 普通の市民以上に 守られなければならない存在 ともいえるでしょう。

 いつ退院・ 退所していいか という決定は、

 個々のケースで それぞれに判断していくしか ないと思います。

 再犯を防ぎ、 市民の安全を守ることは 何よりも大切ですが、

 だからといって精神疾患者を 無闇に拘束することはできません。

 暴力団組員だというだけで 逮捕できないのと同じように。

 退院・ 退所の判断に 決して間違いがあってはいけないわけですが、

 人間が行なう以上、 冤罪が起こりうるのと同じように、

 完璧はないと 言わざるを得ないのかもしれません。

 (すでに起こったことを 判断するより、

 将来のことを判断する方が 難しいと言えるでしょう。)

 人権の尊重と、 社会の安全と、

 究極のところで 人間の叡智を 絞っていくしかないのだろうと思います。

 かつて ハンセン病患者などをはじめ、

 ハンディを持った 数々の人たちに 人権が認められず、 不条理な偏見 差別を受け、

 悲惨な不幸を 生んできた時代を通して、 社会は人権意識を 発達させてきました。

 今度は、 触法精神障害者の番だと 言えるかもしれません。
 

〔参考〕

 加害者の甦生プログラムには、  「アミティ」 がとても有効とされています。

 下記の記事から連載しています。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/30977301.html

 被害者への心のケアとしては、 心理カウンセリングは元より、

 アメリカでは 殺人事件の被害者遺族と 死刑囚の家族が 共に旅をして、

 和解と癒しを求める  「ジャーニー・オブ・ホープ」 が行なわれています。

http://homepage2.nifty.com/shihai/report/sakagami/1.html

 被害者遺族と死刑囚本人が 面会する試みもありました。

(次の日記に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月27日 (木)

触法精神障害者と 刑事責任能力 (2)

(前の記事からの続き)

 刑法39条があると、 精神疾患者は 何をしても罰せられないから、

 恐ろしい存在だという偏見を 生じさせるという意見があります。

 しかし、 だから 精神疾患者を罰するべきだ というのではなく、

 そういう偏見を解くため 正しい情報を発信していくのが、 あるべき姿勢でしょう。

 責任能力のない者を罰するのは 酷だと思うのは、

 単なる 「情」 に 過ぎないでしょうか?

 しかし そもそも、 「情」 のない司法も 世界も存在しないと 僕は思っています。

 罪を犯した者は 償うべきとか、 責任がない者を罰するのは 不当と思うのも、

 人間の本質的な 感情だと思います。

 「何故償うべきか?」 という 明晰な論理を 見いだすのは難しく、

 直感的, 経験的に そう感じるからです。

 (僕は、 人間の理屈は 最も深い所で、

 感情の上に乗っているものだと 思っています。

 感情は善悪を判断する、 「合理的な」 心の機能です。

 僕は 感情は論理より深い (強い) と 思っていますが、

 「感情」 「論理」 の議論は 本題ではありません。

 また 法の場では、 感情から客観性を 導き出さなければなりません。)

 因みに、 「情状酌量」 は 正に 「情」 に応えようとするものですし、

 裁判員制度も 健全な市民感情を 取り入れるためのものです。

 (もっとも僕は、 国家の法には 通常の市民感情よりも、

 崇高な理念が 必要だと思う場合も あるのですが。)

 そのような 人間の根源的, 一般的な感情に、

 合理的に対応するため、 体系的なルールを作るのが 法だと思います。

 要するに、 そのとき 情に流されすぎないよう、

 理性的に バランスを取ることが 肝心なわけでしょう。

 精神疾患やBPDなどに対する、 精神医学的な 知見の深まりを 期待すると共に、

 以上の事柄を 考え合わせて、

 これらの刑事責任能力と 罰を熟慮するべきだと思います。

 最後に もう一度、 被害者の心のケアを 進めることが、

 何にも増して 大切なことだと 強調しておきます。

(次の記事に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月26日 (水)

触法精神障害者と 刑事責任能力 (1)

(前の記事からの続き)

 近代の刑法は、 仇討ちやリンチを防ぐため、

 被害者に変わって 国家が加害者を罰する という思想です。

 心神耗弱・ 喪失は 罰を減免するという刑法39条も、

 加害者を罰するべきか、 つまり責任能力が あるかどうかという観点で、

 被害者の立場は 考慮されていないのではないかと 思われます。

 被害者の応報感情は 考慮されるものの、

 司法の場で 被害者は今まで 蚊帳の外に置かれてきました。

 でも 近年になってようやく、 被害者にも光が 当てられるようになってきました。

 僕は 犯罪被害者支援の勉強もしていたので、

 被害者の立場の苦悩も 理解しているつもりです。

 しかし 責任能力のない者を罰するのは、 やはり意味がないことだと 僕は思います。

 子供に 刑事罰を科さないのと同じです。

 そういう加害者に必要なのは、 治療, 教育, 矯正などだと考えます。

 それから、 再発防止のための 医療や施策も不可欠でしょう。

 そして それらと同時に、 それ以上に重要なことは、

 被害者に対する 物心両面への支援 (なかんずく心のケア), 補償などだと、

 僕は 以前から述べています。

 それが国家の義務ですが、 特に日本では それが何より遅れています。

 被害者への心のケアの 有効なプログラムは、

 今のところ世界的にも 充分ではないのでしょうが、 研究の推進が望まれます。

 被害者の応報感情は 当然のことですから、

 何とかそれを癒す術を 早急に、 どこまでも 追求していってほしいと思います。

 現在 ケアが足りないからといって、

 加害者を罰するのは 目指す方向が違うでしょう。

 責任能力を持てない者を 罰しても、

 抑止能力にならないのは 明らかではないでしょうか。

 彼らは意識して 犯行をしているのではなく、

 犯行時に 罪を自覚できないのですから、 罰を恐れる心理は 働きません。

 従って、 新たな被害者が 減ることもありません。

 法治国家の秩序を 守るために求められるのは、

 効力のない刑罰ではなく、 再犯や新たな犯行の 防止でしょう。

 今の日本の刑務所は 更生教育の役割は ほとんど果たしておらず、

 その意味でも 単なる拘束は 無益だと思います。

 罪に応じた罰 という視点からも、

 責任のない人に 罰を負わせるというのは 不当なことです。

 繰り返しになりますが、 肝要なのは 治療や教育です。

(次の記事に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月23日 (日)

パーソナリティ障害と 刑事責任能力

 
(前の記事からの続き)

 解離性同一性障害とパーソナリティ障害の 解離症状の差異に対して、

 刑事裁判では責任能力を どのように判断するべきでしょうか? 

 心子も 広義の解離性同一性障害でした。

 記憶をなくすことも しばしばありました。

 または、 記憶のない時ではなくても、

 心子が何かのきっかけで、 人を害することを 起こさなかったとは言い切れません。

 現実には 犯罪とは縁遠い心子でしたが、 一般にBPDの人は、

 罪科を起こしたり 巻き込まれたりする可能性も、 ないとは言えないでしょう。

 解離性同一性障害は 責任能力を免れる場合が あるのに対して

(日本ではまだ そういう判決はありませんが)、

 パーソナリティ障害は責任能力ありとされます。

 自分を抑えらずに、 自分自身が最も苦しんでいる パーソナリティ障害の人に対して、

 それは酷な面が あるのではないかと、 僕は感じています。

 統合失調症などは、 心神喪失なら 刑事責任を負わされないことがあります。

 心神耗弱の状態では 刑を減じられます。

 BPDの人が 例えば解離を起こしたとき、

 心神耗弱、 さらには 心神喪失とも言える 状態があるかもしれません。

 詳しい精神医学的な 研究が必要で、 法的にも綿密な 検討が望まれます。

 裁判員になる市民にも、 真摯に考えていってほしい問題です。

 そのために、 パーソナリティ障害の知見が もっと広く知られ、

 理解されるようになっていかなければ と思います。

(次の記事に続く)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月22日 (土)

ミュンヒハウゼン症候群、 パーソナリティ障害と 刑事責任能力

 
(前の記事からの続き)

 2000年、 奈良でも 

 代理ミュンヒハウゼン症候群の被告の 事件が発覚しました。

 このときは、 同症候群に対してではなく、

 被告女性の家庭環境に対する 情状酌量によって、 減刑がされました。

 被告女性は 子供の頃より、 父親から近親姦を受け、

 複数の男からも 性的虐待を受けています。

 離婚後は 相次いで、 3人の子供のうち 二人が死亡、 一人が自殺未遂、

 両親が不審死を遂げました。

 こうした生育歴が、 同症候群に関わっているでしょうか。

 また、 他の 代理ミュンヒハウゼン症候群のケースでは、

 子供のときに 手術を経験して、 周りの同情を買った 記憶から、

 病気を作り出す行為を 繰り返す例も多いといいます。

 代理ミュンヒハウゼン症候群と パーソナリティ障害との関わりも

 指摘されているそうですが、

 どちらも生育歴や 幼少時の愛情不足が 関係しているのかもしれません。

 普段から充分な愛情を 与えられている子供なら、

 わざと病気になって 同情を引く必要はないでしょうから。

 BPDも、 本人が充分な愛情を 感じられなかった結果、

 愛情を得るため 死に物狂いになったり、

 思い通りにならないと 自分を抑えられないほど、

 激しい言動に 走ってしまうわけです。

 しかし、 パーソナリティ障害も 代理ミュンヒハウゼン症候群と同様、

 刑事責任能力はあるとされています。

 一方、 解離性同一性障害の被告では、

 多重人格を広く知らしめた ビリー・ミリガンをはじめ、

 強姦や殺人が 無罪になった例があります。

 犯罪を犯した人格が 主人格とは別で、 主人格には記憶がないからとされます。

 けれども、 解離症状を起こして、 自分の起こした言動に 記憶がなくなるのは、

 BPDも同じです。

 この点は BPDも解離性同一性障害も 類似したメカニズムで、

 ストレスの程度の 差によるのかもしれません。

(次の記事に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年5月21日 (金)

ミュンヒハウゼン症候群と 刑事責任能力

 
 裁判員制度が始まり、 ちょうど今日で 1年目ということです。

 折しも、  「代理ミュンヒハウゼン症候群」 の 女性が起こした

 傷害致死事件の判決が、 昨日 京都地裁でありました。

 母親が 自分の娘3人の点滴に、 異物などを混入して 死傷させた事件です。

 「代理」 が付かない 「ミュンヒハウゼン症候群」 というのは、

 自分に関心を持ってもらうため、 自分自身を傷つけたり、

 病気を装ったりするものです。

 “ほら吹き男爵” の異名を持つ、 ドイツの実在の貴族・

 ミュンヒハウゼン男爵から 命名されました。

 ただし  「詐病」 とは異なり、 周囲の同情を得る 精神的利益が目的で、

 そのために 自傷や手術を受ける リスクも厭いません。

 詐病は 主に経済的利益のためであり、 大きなリスクは避けようとします。

 「代理(による)ミュンヒハウゼン症候群」 は、

 傷つける対象が 自分ではなく 別の人であり、

 被害者を献身的に看病をする 自分の姿に、 関心を集めたいためにするものです。

 多くの場合、 母親が子供を傷つけますが、 母親は子供を愛していて、

 懸命に子供に尽くすため、 周囲は傷害行為に なかなか気付かないといいます。

 母親の目的は あくまでも、 看病する自分が 注目されることであって、

 子供を傷つけることでは 全くありません。

 今回の事件でも 殺意はなく、 医学知識の不足のために、

 死にまで至らしめてしまった ということでしょう。

 昨日の判決では、 同症候群のために、

 刑事責任能力が一定程度 低下していることは認められましたが、

 弁護側が主張した 執行猶予は付きませんでした。

 「裁判員制度スタート以来、 最も難しい事件」 とも言われる この裁判ですが、

 裁判員に 難解な医学知識を 理解させると共に、

 心の障害を持った 被告の責任能力の判断は、 

 今後のことも含めて 大変な難題です。

(次の記事に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧